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帰水空間 ・ 前編



堕ちていく――まさに、闇の底へと転落していく瞬間まで。

凪子は、勝ち誇ったような笑みを、消さなかった。

その一瞬が永遠の闇のように、司の網膜に、鮮やかに焼き付く。

叫び声一つ上げずに、彼女は投げ出されたままに身を委ね、

僅か数秒が、気の遠くなるほどの狂気を生み出す。

「――凪子……!」

パシィーン……という、砕ける音。

それに、正気が引きずり戻された。




襲い来る罪の意識と、逃げ出したい恐怖に、後にも先にも身動きが

取れなくなることから身を引き千切るように、行動は起こされた。

それから夜が白み出すまで、彼はひたすら病院のロビーで待ち続けた。

だが、手術室のランプが消えて、“凪子の”無事を報されてからも、

彼女に会うことは、叶わなかった。



何故、こんなことをしてしまったのだろうと、もう二度と取り戻せない時間を

悔やむばかりで、何の未来も拓けはしない。

あの時、彼を突き動かした、激しい感情。

意識が、一瞬にして焼き滅ぼされるかというような危機感に瀕し、

衝動的に凪子の存在を抹消しようとした。あの熱は……嫉妬? 

だがそれも、いまだに何処にあるものなのか、理解しきれずにいる。

彼は、少しずつ分かりかけているはずではあるけれど、あまりの混乱に、

秩序立てた思考の仕方をするには、不可能な状態だった。

何処にもよりどころのないままに、真っ暗な夜の海に沈んでいくような気がした。

あの時の凪子の、勝ち誇った表情が、残酷すぎる仕打ちのように美しいゆがみとなり、

彼の精神を締め付ける。

「知っている」と言った凪子の口を封じようとした殺意、聞くまいとした逃避。

何を聞きたくなかったのか、知りたくなかったのか……認められなかったのか。

すべての鍵は、善彦。多くの謎や混乱が発し、そして還りつく場所。



司は以前、凪子に、「本当はそれ程、善彦を好きじゃなかった」と告白した。

だが今、激しい混乱の中で、一体自分が、彼の何処を好きになれなかったのか、

どんなところが嫌いだったのかを考えてみると、何も出てこないことに、彼は更に困惑した。



二人が『親友』として足並みを揃えていた頃のことを、思い出す。

人並みなことしかできないくせに、負けず嫌いだった司。

ふざける時すら穏やかだった善彦。

そんな二人に、似ているところは、特になかった。

ただ二人共、『普通』という領域の住人であった。

――不意に、次々と胸に蘇ってくる記憶。



司より、ほんの少しだけ足が早かった善彦。

でも、二人共、サッカー部では補欠だった。



司より、ほんの少しだけ背が高かった善彦。

でも、二人共、同級生の少女に振られた。



司より、ほんの少しだけ成績が良かった善彦。

でも、二人共、同じ高校、大学へと進学した。



……いつも、ほんの僅か。取るに足らないほど、僅かだけ。

決して、お互い口にすることはなかったけれど、『普通』の二人が共有してきた、

同じ『平凡』という枠の中で、取り残されるのではないかという不安に、

常に直面させられていたのは、善彦ではなく……司だった。



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