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帰水空間 ・ 後編



やっと凪子に会うことが出来たのは、すっかり日も高くなった頃。

十五分程の時間を与えられ、柔らかな光に包まれて眠る凪子と、

対面することとなった。看護婦に言われる諸注意にうなずきながらも、

それを理解するまでに、思考は平常に戻っていない。

今の彼は、自分が犯した罪と、自分が隠した『意味』との接触へと、

自身という存在を押し出すことで、頭が一杯だった。

「……私、やっと分かったわ」

司が、静かに椅子に腰掛けるなり、凪子は目を閉じたまま、呟いた。

彼に危害を加えた人物を前に、何よりも先に。

そして目を開くと、何も言い出せないままの司に向いて、しばし、

見つめ合った。もう、昨夜の表情の、片鱗も見いだせない。

「何故、善彦さんが……私とあなたを会わせなかったのか」

失ったものを、また更に失ったはずの、心の空虚さは無い。

そこにあったのは、懐かしい程に胸に苦しい、優しい記憶の理解だった。

「私達、お互いに、善彦さんを取り合っていたわ。――おかしな話ね、

 もう居ない人を、それぞれ独り占めしようと……張り合っていただなんて」

そうだったのだろうか? 司には、まだ解析要素が不足していた。

だから、ほんの僅か分かることを鍵に、彼女に聞いてゆく。

「君は……僕の内から、善彦を、すべて奪おうとしていたね」

「あなたは、私に嫉妬していた。……あなたの知らない善彦さんを持っていた私を」

初めは、凪子を求めていたのだと、信じていた。だから、いまだに凪子を離さない

善彦を嫉妬していると、そう思っていた。だが次第に、それが何か違うもののように

感じられ始め、そして、何が何であるのか、分からなくなっていった。

結局は、それぞれが、どれだけ多く善彦にとって大きな存在であったか、

或いは善彦のことを思っていたかを競ったのですらなく、傲慢な自己愛のままに

誠意の不在から逃げ続け、求めたのではなく、奪い合っていただけ。

司も、善彦の死という感傷に浸る余裕がなかったわけではなく、ただ、

その気が無かった自分を、今は認めざるを得ない。


「僕は……自分の内の嫉妬の意味すら理解できない程……僕自身について、

 あまりに無知で……」

喋ろうとすると、喉が、くっと締まり、思うような声が出なかった。

何を言っても、言い訳がましい自己弁護に陥りそうだという思いが、

ふと過ぎったからかもしれない。そんな彼を、凪子は静かに待った。

だが、それ以上の言葉は、今は継がれることはなかった。

「善彦さんは……知っていたわ」

しばしの間の後、凪子はふっと息をつくと、窓側へと目を向けた。

アイヴォリーのカーテンは開けられていたが、鮮やかな青い空と、

細くとがった樹木の先端しか、視界には入らない。

「私達が、どんなに利己的な人間か。きっと、誰より……私達自身よりも、

 よく知っていたのは、あの人だった。それでも、善彦さんは……」

細く、微かな声が、更に途切れそうに震えた。二人共、善彦を独占しようとしていた。

自分の肉を食らわせるように甘えさせてくれた、彼の存在……そして、記憶までも。

――すべてを知り、その上で、二人共を、どれ程に愛してくれていたのか。

その、善彦の深い思いが、やっと今、時間の狭間を埋める。

どちらも、かけがえのない程の愛情に護られながら、善彦が側に居た時には、

少しもそれを気付かなかった。

いつも大事であったのは自分で、それ以外に何も見つめる余裕など持たなかったような、

あまりに子供であった二人を、それぞれに慈しみ、護ってくれていた善彦。

彼の突然の死がなければ、永遠に巡り逢わなかったかもしれなかった運命のゆがみから、

司も凪子も、自分が最も知りたくなかった自身の姿を、その目で認識することとなった。

たとえ『親友』、そして『恋人』という、それぞれの存在を隠していることが

露見した日には、裏切り者と糾弾されようという可能性を予見していても、

それ以上に大切なもののために、独り、胸の内に針を抱き続けてくれた善彦のことを、

その大きな包容を――理解できた。



「まるで……片恋の物語の顛末ね」

凪子は、溜息混じりに呟いた。

誰が誰を愛し、誰が誰に嫉妬していたのかすら判然としなかった時間が、

終幕を迎えようとしている。

聞いたこともないような、不可思議な関係に絡み合っていた思慕の情。

一体、想いを遂げたのは、誰だったのだろう。

――自分が傷つくことばかりに過敏で、自分を護ることしか考えられなかった愚かさが、

優しい痛みの中で、今も抱き締められていることを、感じられる。

そして司は、凪子以上に、善彦を亡くしたことを認めるのを畏れていた自分を、

そこに見つけた。


微かに震える心を抱いたまま、彼は静かに目を閉じた。

あの、『夢』……善彦に拳銃で胸を撃ち抜かれた夢を、思い出していた。

善彦は、もう片方の手にも、拳銃を持っていたに違いない。

司だけではなく、凪子もまた、同時に銃口を向けられたのだから。善彦に。

二人を傷つけたとしても、それ以上に大きな愛で護ろうとしてくれた彼の

強い優しさが、遥か遠い記憶の静けさの中で、密やかに疼く。

たゆとう水のように流れ出した思いが、いつしか再び、帰るべき場所へと戻ってくる。

様々な人の思い、心。自分という胎内を環(めぐ)り、そしてそのイニシエーションを

終えて、『意味(イメージ)』は融合される。


――今、司と凪子は、同じ空間に行き着いていた。




静寂の中で、鼓膜に痺れるような振動を感じながら、二人は空(くう)を見つめていた。

「そういえば……」

いよいよ約束の時間が迫る頃、司は思い出したように、上着のポケットに手を入れた。

凪子が振り向くと、彼は黒い小袋を、そっと差し出した。

「……砕けてしまった」

拾い集めた破片。壊れてしまっても、きらきらと光を受ける、『虹の卵』のカケラ。

横になったままの凪子の手に、その一つを握らせてやった。

「壊れちゃった……か。――何か、生まれたのかしら?」

彼女はそれを瞳の上に翳した。陽の光を受けて翻った光が、司の目をも刺した。

彼と凪子の間を繋ぐように、白いシーツの上に、虹色の帯が走る。


――今の二人は、その色に、どんな意味を見いだすのだろうか。










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