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月時計



ぼんやりと滲む月のように、意識が散漫になっていくのが、他人事のように感じられていた。

曖昧な感情を、あえて定義もしないままで、互いに引き寄せられることが、

まるで月に抗えぬ潮の満ち干であるが如く、司は、凪子との逢瀬を重ねた。

時には凪子が彼を訪(おとな)い、そうして、ほんの僅かな時間の中で、

深みにはまっていくように、彼は『日常』と共に、『意識』を失っていった。



次第にはっきりとしていったのは、凪子という存在に関することのみだった。

いつの間にか、音もなく絡みつく蔦のように、彼を絡め取る彼女の存在。

何一つ不自由なく育ち、唯一つ、普通の家庭の愛情に満たされず育った凪子。

その意味で、司や善彦に対し、彼女という存在は全く反対の象限に位置すると言える。

持っていたものと、持たなかったもの。

それが丁度、互い違いで、だからこそ一度手を取り合えば強く惹かれ、離れられない。

だが今、彼の精神をゆがめ、不安定に揺るがせているのは、そんな事実ではない。


――どんな時も、抱き合っていても、凪子との間に介在する善彦の存在が、

彼を苛んでいた。もう死んだ男が、何処にいてもついてくる。凪子と居る限り、離れない。

善彦の死が、凪子と彼との間で昇華されていないことに、気付き始めていた。

今の彼は、善彦の介在なくして凪子と一緒に過ごすことができない。

このままで良いわけがない、おかしくなるに違いないと、逃げ出したい思いがあふれる。

だが、善彦を許さないままにも離せない自分をも、感じている。

苦しいのは、善彦の介在という事態そのものよりも、善彦の生前の裏切りが、

凪子を見るたびに、彼の胸に刻まれることだった。

凪子の存在は、彼の中では善彦の裏切りそのものと同一であり、

彼女が善彦の恋人であったという事実が消せない過去で、

またそれについての弁明をなし得る善彦が既に還らぬ人であることが、

決定的な悲劇を構成していた。

司自身、『日常』を愛していたわけではない。ただ、彼と善彦を繋いでいた、

『中庸』という媒体概念が失われることを、畏れただけだった。

それも、善彦という存在を失うのが怖かったわけではない。

『平凡』の枠の中で苛立ちながらも、そこにしかすがれなかった彼が自分を

確立するためには、善彦という存在が必要だった。

もし、ジレンマが起こったとして、それに屈しないでいられるだけの

自信も勇気も無かったという、ただそれだけのことに過ぎない。

だが、その安寧が、凪子によって壊されてしまった。

善彦と、凪子という『非日常』の存在の女性との関係の実証を得てからは、

善彦自体が、既に司との同心円から逸脱していたことを確信した。

司は、その(彼にとっての)裏切りが、背徳行為のように感じられ、

許し難い憤りに、その身を委ねていた。

あの穏やかな笑みの下に、そんな欺瞞が隠されていたことに気づけなかった。

その苦しみが、凪子のことを思うだけで、吹き出しそうにあふれてくる。



凪子は凪子で、一体何を考えているのか、理解できない。

いまだに善彦の死を認定することを拒否し、世界中に散らばってしまった

『彼』の破片を、人々の記憶の中からかき集め、もう一度『彼』を

構築しようとするのか。何故、そんなにまでして、善彦を求めるのだろう。

彼女もまた、不完全な自分という存在がこの世に実存するに、

確かに依拠するところを欲するがために善彦を失えないという、

それだけなのかもしれない。

だとしたら……そんな二人が一緒に居ても、不毛以外の何物でもない。

今のままでは、司は、自分の嫉妬の所在が何処にあるのかすら、

理解できなかった。



或る夜、司は突然に帰郷すると、凪子に連絡した。

用件は言わず、その了承すら求めなかった。

駅裏を降りていくと、森に覆われた公園になっている。

ここは週末の夜でも、静寂が約束されていた。

濃い緑が、鬱蒼と息をひそめる、『杜の都』にふさわしい、深い闇の夜だった。

凪子は階段の上で月光を受け、長い影を落としていた。

何かを、大切に胸に抱くような体勢で、座っている。

生まれようとする卵を、壊れないようにと暖める母鳥のように、

夜に包まれながら、闇を抱擁していた。

「何で……こんなに苦しいのか、分からない」

司は、凪子の影だけを、背後から見つめていた。

彼女の長い黒髪が、夜を渡る涼やかな風に、微かにそよぐ風まで、色濃く映える。

「凪子のせいだと言うんじゃない、だけど……苦しい。僕は、自分が何を欲しいのか

 分からなくなって……。最初から、分かってなかったのかもしれない。

 凪子が欲しかったんだと、当たり前の感情として判断していたけれど……

 君に触れると、苦しい……」

熱にうかされたように、茫然と喋る彼の言葉を、凪子はひたすら、黙って聞いていた。

「何かが、僕の中で暴れようとしている。だけど、それが何なのか分からない、

 早くどうにかしないと、僕自身が先に壊れてしまいそうなのに、分からない……!」

ひとなぎの風が、繰り返し奪い去る熱。そして、絶え間なく迫り寄せる、忘我のめまい。

彼の目には、冥(くら)い空に揺れる木々の茂みが、もつれ合い荒れ狂う波のように映った。

「……分かりたいの? 分かって、壊れてしまうかもしれないのに」

背中を向けたままの凪子の言葉に、司は眉をひそめた。

その影から、不思議な落ち着きが漂う。そして、唐突に顔を現した疑問。

――今まで司がこれだけ苦しんできた間、その時間を絶えず分かち合ってきたはずの

凪子は、何も感じなかったのか。

彼女には、悦(よろこ)びも、哀しみも感じられない。

彼女はただ、求め続けた。

静けさの中で、一つのかけらも残さず、善彦を手に入れようと。

「あなたは、何故私を抱いたの」

「君は……知っているのか」

彼自身にすら分からないことを、彼女は知っていると言うのだろうか。

「……えぇ」

凪子が、くすっと笑ったような気がした。

司が立ち尽くしていると、彼女は、すっと立ち上がった。

やはり、何かを抱いているような体勢のまま、ゆっくりと……振り返る。

その顔に、初めてかと思われる、したたかな笑みが浮かんでいた。



「――私、三ヶ月なんですって。……昨日、病院に行ってきたわ」

含み笑いの月影。青ざめた面(おもて)の司を翻弄するように。

凪子は、くっと視線を上げた。

「善彦さんはね……あの夜、私のところから帰る途中で、事故に遭ったの」

「なん……だって……?」

「でも、これから善彦さんは、ずっと私と一緒に居てくれるんだわ……」

ふ……と、ほんの僅かこぼれた吐息の間に、司の視界が、鮮烈な赤に染まった。

「だから、もうあなたは必要ないの、善彦さんは、私のものよ……!」

ほとんど反射的に、司は凪子の細い躯(からだ)を、階段の上から力一杯、突き飛ばした。



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