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通り雨



実際のところ、司は、凪子との約束を、ひどく後悔した。

彼女には、「仕事が忙しい」など、幾らでも理由を付けて断ることはできると、

あの日以来、そればかりを考えていた。

というのも、善彦の訃報を聞いた時から、司の内での 『親友』としての善彦の存在が、

何か変わってきたように感じられたからだった。

変わったのではない、表に出てきただけなのかもしれない。

けれど、彼の死に、これといったショックも感傷もないまま、無為に日々を重ねる

自分の冷たさに、何の違和感も感じないこと自体が、彼を迷わせていた。

凪子は、善彦の『親友』であった司に会いたいと願っている。

だとすれば、今の自分は、それに当てはまらないような気がしていた。



改めて、自分と善彦が一体どういう関係にあったのかを思い出そうとすると、

それは二十年近い歳月を遡ることになる

『幼なじみ』なんて、ずっと一緒に居たという『環境』だけのものでしかない。

だからこそ、二人が仙台と東京に離れてしまってからは、音信が途絶えてしまったのだ。

司は、そう考えていた。

二人の間に有ったのは、平凡という共通意識に支えられた、一体感でしかなかった。

『並』の枠に収まっていることへの安心にまどろむ一方、そこから抜け出せない自分に

苛立ったことが、無いではなかった。そんな時、彼はそれを、善彦のせいであるかのように、

責任転嫁をなしていた。お互いを補填し合っていたというよりは、どちらかが『日常』から

突出することもないようにと、足を引っ張りあっていただけではなかったかと、

そんな思いすら巡る。

……そして今、善彦の死を契機に、二人を繋いでいた妄想が、静かに崩れ始めた。

あの、凪子の儚い美しさを胸に思い描くだけで、不可解な感情が彼を苦しめる。

それは、嫉妬? だとしたら、何に対してだというのだろうか。




約束の日は、また雨だった。司は、休日出勤の代休を取り、何とかまた郷里へと……

凪子のもとへと向かった。彼自身の中で、何かを突き動かすような感情が、

(やま)しさに勝っていたらしい。もう今は亡き雨宮善彦の、『誕生日』を祝うための

来訪だというのに、今の彼は、善彦のことは、できるだけ忘れていたいという気持ちで、

凪子のもとへと心が急いでいた。『誕生日』は、彼女のもとを訪れる、現在唯一の

口実の可能性であったから、仕方ないかもしれない。けれど彼は、自分が実際に、

何を求めて歩いているかも、把握しているわけではなかった。



仕事を終えてから新幹線に飛び乗り、地下鉄へと乗り継ぐ。

遅くなっても良いという凪子の言葉に甘んじたことと、彼の足取りを引き戻そうとする

後ろめたさが、ぎりぎりまで逃げていた。それに……どうも、凪子の感覚というのは、

常識的な女性のものとは少し違う、というよりも、ズレたもののようだった。

だから何の気なしに、二人で深夜の祝杯をあげよう、などという発想をする。

一瞬ドキリとした司も、彼女を見ると、それが彼女にとっては何ら特別の意味もない、

他意もない言葉なのだと感じられた、妙な胸騒ぎを禁じ得ない自分の卑俗さが、

気恥ずかしくなる。

初めて出会った、あの陽炎の中の映像そのままに、凪子は不安定な印象が消えない。

羊水の中で漂う胎児のような、或いは逆に、胎児を抱く母胎のような、ふうわりと、

懐かしい生暖かさで、それでいてベタつかない、瑞々しい感覚。

すべてに包まれ、すべてを包み込む存在。



「――……逢いたかった」

彼を迎えるなり、凪子は瞳も潤む溜息のように呟いた。

他の、どんなねぎらいの言葉よりも早く、率直に。

そして、そう呟く彼女は、あの日よりも一層、美しく見えた。

「今の今まで、本当に来てくれるか、心配だったの。本当に……私独りでは、

 今夜は……心細くて」

このまま見つめ合っていては、玄関で時が終わってしまいそうな気がして、

司はとにかく何に入れてもらった。

中に導いてくれる凪子の後ろ姿を見つめていても、長い髪が華奢な腕に揺らめいて

絡みつくようで、彼の思考の中での、混沌とした海の底のイメージへと誘(いざな)う。

あの夜は長袖の喪服姿だったが、今夜はベージュの、ノースリヴのルームドレス。

すっと伸びた腕が、付け根まで白く、目に滲む。

「じゃあ……善彦の、誕生祝いか」

当人のいない、バースデイ。グラスを交わす二人は、その奇妙な祝杯に微笑した。

何のために、祝福するのだろう。もう、ここにも、何処にも居ない『彼』のために、何を。

それとも……居ないことを? 

司は、この席で自分が何を慶んでいるのかは、考えていなかった。

目の前にいる、凪子のことだけを考えていた。

彼と同じく、あまりに身近であったはずの人間を、突然この世から失いながら、

さして深く嘆き悲しんでいるようにも見えない、不思議な美しさの女性のことを。


彼女はただ、「認めていない」だけなのかもしれない。

あまりの悲しみに、何も感じられなくなったのか、感じることを拒否し、

善彦の死という事実の認定すら、否認している。

しかし……そうだとすれば、何故彼女は、善彦の『誕生日』を祝おうなどと、

言い出したのだろう。



凪子が、一度テーブルの上を片づけて、台所に行ってしまうと、

司はバルコニーにある硝子戸へと歩み寄った。

雨が、激しくなってきた。

耳を澄ませば、遠雷が聞こえる。

次第に、次第に近付いてくる運命のような、遠い足音。

硝子に叩きつけられる雨音が、狂気じみた熱狂の拍手のように、鼓膜を襲う。



――心が抜けていってしまいそうな瞬間、肩に、凪子の手が触れた。

そして、背中に、頬が。

……彼女はいつも、動物的な『気配』というものを、まったく感じさせない。

それは、不気味なほどの静けさの中で、人知れず繁茂してゆく蔦(つた)のような『気配』。


「……あなたのなかの善彦さんを、私に頂戴」

いつの間にか彼は、惑うように甘やかな薫りの中に、囲われている。

微かな吐息が、背中に熱い。

ぴったりと寄り添った凪子は、彼に、そんな願い事を言った。

それに対し、彼はあきらかに硬直した。

近付いてくる雷鳴に耳を傾けながら、彼女の言葉に、うなずけはしなかった。

「僕は……本当は、それ程、善彦を好きじゃなかった」

彼は、思っているだけで、彼女には言うまいと閉じこめていた言葉を、解き放った。

「あいつも、そうだったんだと思う。だから……君のことを紹介してくれなかった。

 話もしなかった。僕等は誰より信頼し合っているように見えただけの『親友』で……

 その実、きっと信頼なんかしていなかった。見せかけだけの、偽物だったんだ」

「――構わないわ。それでも」

凪子は肩に触れた指に、ぎゅっと力を入れた。

細い指が、男の肩に、食い込むように震える。

「どんなものでも良い。……すべて欲しいの。だから……頂戴、私に」

『植物』であるはずの彼女が、能動的に欲望を述べる。

闇の中でうごめき、人の目から隔絶された場所でのみ、変貌を遂げる夜の花。

意識を、真っ白に閉ざす雷光。胸の中でざわめく嫉妬が、現実をかき乱す。


――凪……子……


指先が触れあうことが、禁忌を犯す第一歩になる。

一体どれほどの愛が……何が、ここまで凪子を駆り立て、その損失を奪回しようと、

求めさせるのだろう。

てのひらに『善彦』の思い出を持ち寄り、二人は与え、奪い合う。

そしてたどるのは、それぞれが分け持ったシグナルの軌跡。


記憶を重ね合わせながら、司は凪子との意識の結合に、不可解な欲望と、

嫌悪にも似た畏れを抱いた。



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