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虹水晶



葬式が終わってからも、司はしばらく雨宮家で話をしていた。

というよりも、善彦の母親が、少しでも長くいてほしいという様子でいたから、

9時頃まで付き合い、後は「また明日仕事なので」と雨宮家を出た。

閑静な住宅街は、既にひっそりと息をひそめるように、静寂に覆われていた。

おやっと目を凝らすと、暗がりの中に、人影が見えた。

「立原……司さん、ですね」

それまで、ずっとその瞬間を待っていたかのように、灯りの外にたたずんでいた女性は、

すっと歩み出た。

「今朝ほどは、どうもお世話になりました。私、神村凪子と申します。

 お疲れのこととは思いますけど……少し、お話がしたいんです」

彼は、今度は自らが闇の中で立ち尽くした。

いつの間に現れ、いつの間にか姿を消していた、あの謎めいた女性。

司は、明日の朝が早いからと、一応は断ったが、彼女の家が駅の目の前だというから、

最終の地下鉄までという約束で了解した。

「でも、お宅でしたら、こんな時間に、ご家族にご迷惑では……」

「いえ。私一人ですから。どうぞお気兼ねなく」

えっ……と、ついて見れば、何と駅の真ん前もド真ん前、一等地のマンションだった。

そこに一人暮らしをしているという彼女は一体……と考え、彼女の名前を思い出し、

ハッとする。“神村”――もしかして、市内でも有数の資産家。

「片づいていないので、お恥ずかしいんですけれど……どうぞ」

通されてみれば、ワンルームなどどいう慎ましい広さでもない。

揃えられたインテリアの一つ一つを見ても、何一つ不自由ない生活をしているように

見受けられた。彼の生活感覚からすれば、ここはまったく、『非日常』の別世界だった。



お茶を出しますからと、凪子が奥に引っ込むと、手持ちぶさたの彼は、

ソファーセットの置かれたリヴィングを、ゆっくりと歩いた。

バルコニーの方の壁際に置いてある観葉植物の鉢を見た時、

彼の思考を、一つのインスピレーションが過ぎった。

凪子の、儚いようでいて、何処か根を張ったような強靱さを備えた、不思議な印象。

何故、動物的生気が無いのに、そんな力を感じられるのかが分からなかった。

しかし今思い当たるのは、彼女の気配が、植物的な生気と、よく似ているということだった。

見た目には、呼吸すらしているかも分からないが、確かに、息づいている。

そして、その横のキャビネットには、沢山のクリスタル・グラスや、水晶細工が並んでいた。

その一つ一つが、壊れやすいが故の愛しさに満ちた思いに、護られている。

この部屋全体が、彼女のイメージに包み込まれているかのようだった。

大切に、胸に抱かれるもののように。

「昨日は体の具合が良くなくて、私、通夜には出席できませんでした」

振り返ると、いつの間にか凪子が来ていた。

ソファーの前のテーブルにティーセットを置くと、ほどいた髪が、

すっと艶やかに波を打って流れる。

「昨日って……今日も、大丈夫なんですか?」

「いえ、ずっと良いんです」

そして彼女は、どうぞ、と。勧められ、司はソファーに座った。凪子は、その隣に。

彼女は向かい側に座るものと思っていた彼は、ちょっとびっくりさせられた。

「あ……の、神村さん……は」

「凪子です」

彼女は、じっと、彼の目を見つめた。こうして隣に並ぶと、肩の薄さが、本当に頼りない。

眉毛がくっきりと細く、美しい曲線を描き、気怠い瞳を縁取る。

「は……あ。凪子……さん、善彦のおふくろさんが、お話ししたかったのに、

 あなたがいつの間に消えてしまったと残念がっていましたよ」

「そんな……お母様とお話しできることなんて」

「え……善彦の、あの……あいつとは……何処で?」

ゆかしい薫りが、懐かしく彼を包んだ。

「立原さん、彼とは幼なじみの、親友でいらしたんでしょう? ……今日、初めて知りました。

 ちっとも知らなかったんです」

それは、司にとっての凪子という存在についても、同じことだった。

「私は、市立図書館に勤めているんです。善彦さんは、読書が趣味だったから」

「図書館であなたを誘ったんですか? あいつ、そんな大胆なことしたんだ」

「いいえ。たまたま帰る時に一緒になって……その時、今日みたいに具合が悪く

 なってしまって。迷惑をかけたお詫びに、お茶を一緒に。――それ以来です」

それからつきあい始めた、ということらしい。

「いつ……からですか」

「初めて会ったのは、私がまだ勤め始めたばかりで、彼も学生だったから……

 2年前かしら。外で会うようになったのは、それから半年ばかり経ってからです」

大学の頃から。つまり、凪子は年上だろうか。

そんなことよりも司は、就職してからならまだしも、自分がまだ善彦と共に同じ大学に居た

学生時代から、二人が付き合っていたという事実に、衝撃を受けた。

それを知らなかったこと、というよりも、善彦がまったくそんなことを彼に言わなかった

ということが、信じられなかった。そんな素振りにも気付かなかった。

司も、もう今は別れたが、彼女が出来た時には、まず善彦に紹介していたのだから。

「僕も……知らなかった。善彦に、あなたみたいな綺麗な方が……恋人がいたなんて」

「どうしてかしらね。……不思議。どうして善彦さん、親友の立原さんを、

 私に紹介してくれなかったのかしら。話に聞くこともなかった」

凪子は、ふと笑うと、紅茶のカップに唇を寄せた。巧い言葉も出てこない司も、

その場しのぎに、グイッとあおる。

ふと横の凪子を見ると、あの黒い小袋を、手の中で玩(もてあそ)んでいた。

「それ、何ですか」

尋ねると、凪子は微笑して、袋の紐を解いた。

「虹の……卵よ」

そして更に、包んでいた布をひらく。

「――プリズム?」

透明な三角柱。華奢な凪子の指に、宝物のように、その重みを預けているのは、

虹水晶(プリズム)だった。

「善彦さんが、くれたの。『虹の卵』だよ……って」

彼女の指を見ても、指輪はない。二人の間に、まだ結婚の約束は、無かったのだろうか。

「虹……か。凪子さんは、善彦の『希望』だったんだ」

「そうかしら」

凪子はまた、そっとそれを丁寧に包み、袋にしまった。

そして司を見ると、小鳥のように首を傾げ、

「虹って、希望なの?」

「そう……じゃないんですか? 何か、そういうイメージだけど」

そう返されるとは思っていなかったので、彼女の濡れたような黒い瞳に、戸惑う。

凪子はまた、手元に目を移した。

「そこにどんな意味を見いだすかは、文化によって違うみたいよ。

 南洋の島では、虹が凶兆なんですって。人によっても、違うものなんじゃないかしら」

「ふーん……そうか。意味っつったて、結構そいつの主観だもんな……」

いつの間にか彼は、今日は自分の『親友』と、この女性の『恋人』の葬儀の日

であったということを、忘れかけていた。



「――また、会ってもらえますか?」

別れ際、凪子は司に、そう願った。

「お仕事が東京だということは、分かってます。でも……今月末は、善彦さんのお誕生日で、

 その日は、彼と一緒にお祝いをするはずだった。もし、できたらで構わないんです、

 私独りでは寂しい……。だから立原さんも私と一緒に、その日を過ごしてくれませんか?」



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