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夏時間 ・ 後編



ホームに降り立つと、まだ雨が降っていた。

しかし、かなり小降りになっており、じき止みそうだった。

元々、夏でも涼しい街だが、こんな天気の日には、ホームの空気が冷え冷えとする。

まずは家に帰らないと、また母親がうるさい。世話好きの母は、既に彼の部屋に、

喪服と礼装用の靴下まで並べて、用意して待っているに違いなかった。

助かるのも確かだが、それが鬱陶しい時も少なくない。



九時も過ぎると、雨はすっかり止み、打って変わった晴天となった。

それどころか、一転して陽光がじりじりと照りつける天気になり、

まだ冬用の喪服だったほとんどの人間が、予想外の暑さに、早くも辟易させられていた。

司も、久々に会った同級生達と話しながら、上着を脱いで良いものかを、ずっと悩んで、

気もそぞろだった。

「……まあ、土砂降りよりマシか」

高校時代の部活の友人が、司と一緒に受付につきながらボヤいた。

斎場を訪れる人は、まばらだった。雨宮家ゆかりの人と、雨宮氏の仕事関係者、

それに善彦の学友、仕事仲間といった顔ぶれだが、付き合いが狭かったからか、

実に慎ましい式に見受けられた。

「しっかし暑いな……」

隣の男は、襟に指を入れる。アスファルトの溝に残った水が蒸されて、

むんむんと立ちのぼっていた。もう二十分程、誰も来ない。いささか退屈気味だった。

司の隣の友人も、トントンと靴を鳴らし、あらぬ方向を眺めている。



――ふと、司は陽炎(かげろう)を見た。斎場の門からここまでの長い道に、ゆらり…と、

幻のように、熱く熱せられた空気の中に、独りの女性の姿を。

ほっそりとした体が、喪服のせいで一層、頼りなげなか細さに見える。

長い髪を編み込んだ、うなじの儚さ。

ふわり、と今にもよろめいてしまいそうな足取りで、彼女は一歩一歩、ゆっくりと歩いている。

片手に提げた白百合の花束が、余りに重そうで、その歩みも、陽炎にゆらめくように。

「あぶな……」

司は、思わず立ち上がる。

そして彼女は、受付の前で倒れそうになり、彼がそれを抱き留めた。

その時の、驚く程に軽い感触が、しっとりと黒い髪と、白い陶器のような肌から匂い立つ

香木のような薫りよりも、彼をハッとさせた。

カラン、と何かが落ちる音。

「おい立原(たちはら)、大丈夫か!?」

もう一人も立ち上がる。あぁ、と司はうなずき、視線を落とした。

地面に落ちたのは、その黒さが熱に溶けてしまいそうな、天鵞絨(ビロード)の小袋。

膝を折って、その銀色の紐をつまみ上げると、中は何か堅い、石のような感触。

そしてまた、腕に抱き留めた女性の顔を見る。

貧血だろうか。うっすら汗をかいているのに、体は冷たく、肌は青ざめていた。

「あの……大丈夫ですか?」

どう扱って良いかも分からず、戸惑った。もう一人の男も、一歩離れて見ているだけ。

というのも、彼女はうかつに触れたら壊れてしまいそうな、繊細な水晶細工のようで。

「あ、あの……おい、担架!」

「んなもん、何処にあるんだよ」

そうこう騒ぎ始めると、彼女が眼を開けた。

「どうも……済みません」

彼女自身は、こんなことが良くあるのか、特に戸惑った様子もなく、

抱き留めた司の顔を見上げた。

「あのっ、何処かで休まれますか?」

それまで何もしなかったくせに、見ていた男が声を掛ける。

彼女は「いえ」と言って、ゆっくり立ち上がった。

「これ、落としましたよ」

司が慌てて、彼女の背に手を添えながら、拾った小袋を渡す。

「……有り難うございます」

彼女は司の顔を見上げると、それを、胸の前で、そっと握りしめた。



「――ぞっとするような美人って、ああいうのを言うんかね……」

彼女が去ってしまってから、また暇になった受付で、

隣の男は興奮覚めやらぬように、司をつついた。

「でも何か不健康つーか……生気が無くないか?」

司は、彼女から動物的な生気を、まったく感じなかった。

かといって、死んでいるようだというわけでもない、不思議な印象。

「雨宮の知り合いだろう? 年から言っても。親戚じゃなさそうだし……」

「さあな」

司は無関心そうに、彼女が記帳した頁を、指でたどった。


――神村(かみむら)……凪子(なぎこ)




余りに若い青年を送らなければならない切なさからか、場内には絶えず、

婦人のすすり泣きが聞こえていた。

目立たないけれど、本当に良い奴だった。いつも、さり気ない気配りを忘れずに、

肝要なところはちゃんと押さえて、場を和ませてくれるような奴だったと、

司の弔辞は地味であったが、友人らしい、穏やかで、優しいものだった。


そして献花。最後の別れの時が訪れる。

司はこの歳になるまで、親しい人を亡くしたことがなかった。

初めて見た死人の顔が、自分と同い年の『親友』だった。

事故死とはいえ、善彦の顔に傷はなく、穏やかな死に顔だった。

今にも起き出しそうな、静かに眠っているような……。

すべての人の願いがあれば、再びその瞳が開くのではないかと、

奇跡を信じてしまうような沈静さの中で、善彦は永遠に眠り続ける。


一瞬のざわめきがしみ渡り、司は棺の方を振り返った。

すると、先刻、彼の腕に倒れた女性がひざまずき……棺の中の、

もう還らぬ旅人に、そっと口付けていた。

今にも崩れそうに震える肩は、涙すら支えるに、頼りないようだった。


――司も、善彦の家族さえも知らぬことであったが、彼女は、

善彦の恋人であったらしい。



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