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夏時間 ・ 前編



彼は、懐かしい笑みを向けていた。


何もない白い空間、他には誰も居ない中、こちら……つまり『自分』を見て、立っていた。


――善彦?


穏やかで、邪気の無い、慈愛に満ちた表情の彼が……黒光りする銃口を、こちらに向ける。
それは、命あるものを殺害する目的に基づき創造された道具。


――善彦、やめろ……!


彼の指が引き金にかかると、自らが撃たれるべき理由も考えずに、『自分』という存在を護る

本能が叫んだ。


突き抜けるような銃声。


彼は、びくっと背が痙攣して目覚めた。そこは、ホテルのベッドの上。

カーテンの裾からは、朝の光が、まばゆくこぼれている。

……『夢』。その認識について、何ら困難は無かった。

だが何故、しばらく何の音沙汰もなかった友人に、拳銃で撃たれる夢など見たのだろう。

それも、『親友』に。


不意に枕元の電話が鳴り、その脇に置いた腕時計を見ると、まだ七時前だった。

会社からにしては、早すぎる。

「……はい」

できるだけ寝ぼけていない声を出すが、相手の声を聞いて、気が抜けた。

「何だ、母さんか……。何だよ、よくここが分かったな」

既に半分、体が寝に戻っていた。今は出張で大阪に来ていたが、本社は東京。

電話は、郷里の仙台からだった。

「何だじゃないわよアンタ……んもう、出張の時は、連絡先くらい、教えていくものよ、

 こっちがどれだけ苦労したと思ってるの!」

口うるさい母親は、いまだに夜、電話をしてきて息子が留守だと、「何処に行ってたの!」

と詰問する。

「んなこと言ったって、もう社会人なんだから、いちいち連絡してるヒマなんて……」

「大変よ司(つかさ)! 雨宮(あまみや)の善彦君が昨日の夜、交通事故に遭って、
 
 亡くなったの!」

「……え?」

彼は、ベッドの上に上体を起こした。

「昨日からひっどい雨でね、まだ降ってるけど……バイクで滑っちゃったらしいの。

 即死だって、今朝の新聞にも載ってるわ。

 ――司、大丈夫? あんた、善彦君とは仲良しだったから……」

何だか、耳元にあるはずの声が、ずっと遠くに離れていくようだった。

「善彦が……事故?」

「あんた、今夜のお通夜に来られる?」

「無理だよ……出張中で、夕方まではこちらにいないといけないし……」

“死んだ”  声よりも、その単語が、思考を巡る。

「行っておあげなさいよ、そこを何とか!」

「無茶だって……何とか葬式には駆けつけるから」

「そんな冷たいこと……」

「社会人なんだから仕方ないだろ」

「何よ、社会人社会人って! 人が、あんたの幼なじみが死んだのよ?  

 それを、あんたが行ってあげなきゃ、善彦君のご両親だって、可哀相じゃないの!」

何とでも言ってくれ、と彼は電話を切った。


――善彦が、死んだ。


それが一体どういうことなのか、言葉としては理解できても、現実が把握できない。

彼はしばらく、ベッドの上でボンヤリと座っていた。

取りあえずは、今日の仕事を完遂しなければならない。

社には九時にならなければ連絡が取れないから、まず雨宮家に電話をして、

今夜の通夜には出席できない旨を伝えた。そして、明日の葬儀には必ず朝から行くと。

……まだ若い息子の不慮の死に、雨宮夫人は相当まいっている様子で、

司の声を聞いただけで、今までの息子の二十年余の思い出が噴出し、

押し寄せてきたかのように、電話口で泣き出した。

だから彼は、弔辞を詠むことを了承すると、早々に、逃げるように電話を切った。

そしてその日は夕方に帰京し、本社で報告をまとめながら、彼は善彦のことなど、

かけらも考えなかった。そんな余裕は無かった。

そうでもしなければ、明日の朝一番で帰省することなど、とてもできない。

休みを取る時は、大抵そのために前倒しで仕事を着々と片づけておくが、

今回のような不測の事態になると、身一つで飛び出すのが精一杯だった。

それでも、休みをもらえただけ幸運だった。



大阪では暑い程であったのに、東京は肌寒かった。

こちらもやはり、雨が降っていたらしい。

新幹線で仙台に向かう時も、行きはずっと雨だった。

しとしとと、音もひそめるように、しかしいつまでも降り続ける雨。



善彦とは、小学校入学当時から同じ級で、以来、幼なじみとして付き合っていた。

中高と同じサッカー部に所属し、大学も一緒。

周囲には、双子の兄弟のように見えていただろう。それ程いつでも一緒にいた。

二人とも、これといって目立ったところも取り柄もなく、普通の過程で平凡に育った、

『並』そのもののコンビ。その共通認識が、安心感をもたらしていたのかもしれない。

しかし、大学を卒業してからは、司がコンピューター関連の会社に就職し上京、

地元の小さな出版社に勤めた善彦との間には、ほとんど連絡はなかった。



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