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――降り過ごしたのだろうか。吊り革に掴まり、チラと小心者の視線で、
車両の端の彼女を見やると、心臓の鼓動が早まる。いつのまに、彼の方が
彼女から追われているような、薄寒い心境だった。じっと、何処かを見る
ように。しかし何処にも目を向けずに、彼女は扉の横に寄りかかっていた。
初めの頃のように、遥かな閉ざされた空間ではなく、沈みきった水底に
いるかのような鬱(ふさ)ぎ方に、また、見てはいけないものを見てしまった
という、疚しさとも罪悪感ともつかない、漠然とした存在の不安が、彼を覆う。
一体、時の狭間に、何が起こったのか。彼にとっては同じ先刻、一分前、
二分前が、彼女にとって、何が違うものになったのか。それは、それまで
彼女を見つめていた時間と同じだけのはずの時間でありながら、それ以上
にも感じられる。目を向けることは憚られるのに、心が彼女から離れない。
不安で、愁えた表情の白さは、そのまま何処かへ連れていってしまわれそうな
危うさで、片道で来た時よりも一層、無関係な彼の存在は、彼女の空間からは
冷たく突き放されていた。波打ち際で、足下からさらさらと砂が流れ去る
感触に、ただ呆然と立ち尽くす彼女を、ずっと遠くから、それを一枚の
写真画のようにしか見ることを許されない。そこは俗世でありながら、
既に世間とは完全に隔離された、彼女ただ独りの「非日常」的空間。
触れることは能(あた)わず、かといえど無関心も許さない、無口なエゴイスト。
これは何の罰でも、報いでもない。ただ、僅かずつ異なる周期を持ちながら、
まったく別の運命の輪の上を歩く無関係な二人の時が、偶然により、可視化
できるまでに近付いた。……それだけのことなのだろう。

彼は、一時間ほど前に通り抜けた改札を再び過ぎるまでに、同じく下車した
彼女の存在を確認した。二人は、あの奇妙な逃避行を始めたスタート地点
へと、戻ってきていた。ゆっくりと階段を降りながら、なるべく目を
上げないようにしていた彼の視界の隅に、確実な「対象」の姿が映る頃には、
もう彼の内では、一つの覚悟が決まっていた。「観察」を始めた横断歩道。
彼女がそこを越えたならば、「観察」はゼロの起点に戻り、終了する。
そうしたら、「対象」としての彼女とも、別れを告げよう、と。
その手前であっても、先であっても、何かが吹っ切れない。
それは、「観察者」としての、彼自身との決別でもあった。

ザァーッと、街路樹の葉が、風を受けて凪ぐ。陽は傾き、風も強くなっていた。
その時、彼の前方を静かに歩いていた彼女が、急に立ち止まった。と間もなく、
更にひと凪の風が、足下をさらう。
……耳をふさぐように、彼女がかがみ込んだのは、横断歩道の手前だった。
「“波”が……」
驚いて歩み寄った彼が、初めて聴いた彼女の「言葉」。無関係な通行人が、
横目で通り過ぎてゆく中、ぎゅっと目を閉じていた彼女は、ゆっくりと瞼を
開いた。「どうしました?」と、恐る恐る声をかけた彼の言葉に、彼女は、
そっと視線を上げた。
「いえ……大丈夫です。有り難うございます」
彼女は、彼の手を取って立ち上がり、清澄な瞳で、ニッコリと笑った後、
しっかりとした足取りで横断歩道を渡り、あっという間に、対岸の人混みの
中に消えた。
彼には、それがまるで、一瞬の魔法のように感じられた。

* * * *

二人の距離が離れてゆくのが、あれほど早いものだとは、考えてもいなかった。
みんな、「うやむや」という名の文字盤の上で、追い立てられるように時を
過ごしたことにも、気付かないフリ。麻酔を打っても、「感じない」だけで、
傷は、痛みは、そこに「ある」のに。

ひとから聞いた。あなたが言ってたこと。取り返しの付かないことを
してしまった……私のことは、あんな風に扱って良いような女の子じゃ
なかった、って。――結局、あの娘とも別れて、あなたはひとにばかり、
そんな泣き言を呟いて。独りだけで、苦しいような時間を重ねて。
「取り返し」……って、何なのかしら。私だって、きっとあなたの目を
見ることができるほど、強くも素直でもなかった。けど、このまま
終わりにしたくない、卒業式には勇気を出して、あなたに笑いかけよう。
……出会いには、「偶然」という言い訳ができても、離別(わかれ)
二人で決めることだから。ちゃんとけじめをつけようって、思った。
けれど私は……私たちは、離別すらも、「偶然」に支配されてしまった。
終わりの時も選べずに、奪われてしまった。

初めてあなたのお母さんにお会いした時、お母さん、私の両手を取って
泣いたのよ。「ずっと会いたかったんですよ。やっとあの子のお嫁さんに
会えたわ」って。私も、あなたのお嫁さんになる日を夢みていたことを、
思い出した。……苦しかった。涙で、喉も耳も、何もかも詰まって、
体が破裂しそうだった。どんなにあなたが好きだったのか、必死だった
自分を思い出すほどに、世界の秩序を引き裂いても、あの頃に戻って、
やり直したいと思った。何で、こんな惨めな思いをしてまで恋をするのか、
分からなかった時もあったけど。嬉しいことも、辛いことも、それだけに
強く忘れられない思い出。それができれば、きっとうまくいく。あんなに、
プライドも何もかも捨てた恋だったんだから……って。
――でも、今は思うの。苦しさから逃げたくて、自分が思うままの時間だけが、
終わり無く流れる世界も夢に見た。楽しかったこと、嬉しかったこと、うまく
いっていた頃のこと。そんな、自分を傷つけるものは何一つない、そんな時間
だけを、器用につなぎ合わせて。それが、エンドレスのBGMみたいに、
いつまでも、いつまでも廻り続ける、それ以外は、過去も未来も拒否する、
幻想の空間。けれど、そんな風に現実から離れて、思い出の中をさまよっても、
それをどんなに繰り返しても。必ず、元の場所に戻ってしまう。
……そうじゃない。もう、戻らないの。ふと胸を、剃刀(カミソリ)を押し当て
られたようによぎる思い――私が謝れば良かったのかとか、そんなことを
考えても、どんなに自分を苛(いじ)めても、もう仕方がない。プライドを
捨てたからといって、得られないものはあった。……そういうことだった
んだって。あの時、あれだけあなたを恋した記憶が、誰にも消し去れない
ものであるように、私には、どうしても届かないものもあった。
あの時、どうしていればすべてがうまくいっていたのかなんて、考えても
どうしようもない。私には、できなかったこと。
あの列車に乗っても、何処まで行っても、「時間」には戻れない。
気が遠くなるくらい、体が弱くなってしまった時には、錯覚や幻想にも
陥ったけど、現実には、何も起こっていなかった。哀しい独り芝居は、
完璧な舞台の上でも、もう同じ場面を取り戻せない。私は生きていて、
間違いなく確実に歩みを重ねて、時の向こうに進んでいる。
私が気付かないふりをしていても、耳をふさいで目を瞑っても、決して
時間は止まらない、戻らない。勝手に長い髪を切ってしまっても、黙って
あなたの駅を通り過ぎても。……もう、自分勝手で我が儘な、子供みたいな
あなたに、叱られることもない。

二度と遅くはない時の狭間で、揺らめくように微睡(まどろ)んでいた。
頭で分かる理屈も飲み込めないで、息苦しさの中で霞む意識に、思い出
だけを映し出して。何とはなく、いつの間にか、本当に、自分がそこへ
迷い込めるんじゃないかと、夢の中でしか見れない夢に、逃げ込んでしまった。
何処にも動かず、時間の流れからすらも自由に、記憶の中だけに、どれだけ
閉じこもっていたのかしら。家族や友達、そんな大切な人達までを、すべて
閉め出して。
――分かってはいたはず。幾度も繰り返した呟き。でも、離れられなかった。
もがくほどの力もなくて、ただ水底に沈んでいくようだった。
どうなることでもないと、知っていて。必死に私を護ろうとしてくれた
温もりも知っていて、どれだけ周りの人を悲しませているかも知っていて。
……けれど、その痛みは知らずに。

“もう、戻れない”
それだけのことが、やっと。
たった、それだけのことだけど、ここまでかかったの。
かけがえのない人達に護られながら、理屈の上では、幾度も理解した言葉の
ように思っていた。でも、ここまで来なければ、言いそびれた一言が、
いつまでも言えなかった。それは、ただ勇気がなかっただけなのだと、
今は思う。あなたのためではなく、私のために、言えなかっただけ。
あなたとの記憶は、贖罪のために、大切にするのじゃない。
「今」の私は、未来のために存在し続けるのだと、信じます。
……お別れができなかった、あなた。
――あなたとの、変わらぬ過去のためにも。



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