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彼が再び店のドアを押した時、店内に客は、二人ほどしかいなかった。
マスターは彼を見ると、軽くうなずくような仕草で迎えた。
「一つ、頼むわ」と、彼は、それだけ言って、カウンターに座った。
そして彼は溜息をつくと、胸ポケットから煙草を取り出し、一本つけた。
ゆらりと立ち上る煙の行方を探すように、彼の思考も、ふと、僅かな
時間を遡る。

視線と言葉が交わされたことで、ひととき繋がった、お互いのことを
何も知らない二人の「時間」。結局、あの不可思議な各駅停車の逃避行は、
彼女を追いかけていたはずの彼が、彼女に追い越されて終わった。
彼女は颯爽と閉鎖空間を抜け、現実の世界へと、ごく自然に戻っていって
しまった。それでは、あの「非日常」的な感覚は、何だったのだろう。
何処に消えたのか。
――無関係なまま、あまりに近付いては離れた運命。彼女のことを、
これ以上、後にも先にも知る術のない彼にとっては関係のない、
ほんのひとときの、断片的な時の流れ。彼女は、これからもまた、
あの閉鎖空間を漂い、打ち寄せられるようにここに戻り、すべての
曇りも洗い流し……それを繰り返すのか。それとも、もうこれで
終わりなのか。それも、分かりはしない。あの時、彼に感じられた
のは、彼女が脱ぎ捨てた後に残された、波が洗い去った後のように、
冷たくも清浄な空気。ただ、それだけだった。

目の前に置かれたのは、彼専用のマグカップ。彼は肘をついたまま、
「どうも」と微笑すると、深い薫りを味わうように、そっと目を閉じた。

彼の耳に、木立を揺らす風の音が、夕凪のように、寄せては返した。










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