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六つ目の駅を越したところで、彼が不思議に思ったのは、何故、彼女が
特別快速に乗らなかったのかということだった。彼女は、時間のことなど
何も気にしていない様子で、相変わらず窓の外の何処かを、ずっと見つめている。
ゆったりと、列車に揺られながら。少しでも長く、この時間に居続けようと、
周囲のすべてに無関心でいる。――そんな彼女を見ている彼の心の中に、
ふと少女的な妄想が浮かんだ。

“まるで彼女は、架空の恋人と、逃避行でもしているようだ”

しかし周囲の人は何も知らずに、それぞれの行く先のことだけを考えている。
こうして見つめている彼にとってさえ、本来、彼女は無関係な存在であり、
彼女の行く先など、彼が知り得ることではない。一秒の隙もなく、「時間」
という升目(ますめ)に区切られた世界。だが彼女は、そんな制限にも属さぬ
視点で、「世界」を見る。彼女にとっての「世界」は、そのフォーカスの
内がすべて。他は、彼女にとっては、みな、不必要な存在。目に映るもの、
それがすべてであれば、満たされる。……それは、恋人達が望む形の、
閉鎖的な空間かもしれない。現実の中の、最もありふれた虚構。
微熱に浮かされ、うっとりと、少し湿った感触の夢を見ている時間の中では、
お互いを見つめるだけで、世界のすべて成立する。そんな、自分勝手で
愚かな……そして可愛らしい、限定された、自由な夢想空間。
今は遠い、だが、いつかは訪れるハッピーエンドを、はやる心で追いながら。
そして、背後の世界からは追われながら、手を取り合う、各駅停車の逃避行。

流石にそこまで考えると、あまりの少女趣味と非現実性に耐えられず、
彼はぐっと手すりに頭を押しつけ、隠すような苦笑を漏らした。
大体、ショルダーバッグ一つの駆け落ちなど有り得ない。しかし、また、
それでこそ、「お互い以外は何も要らない」という心情へと傾く発想も
捨てがたい。

……どうも、今までの彼の「人間観察」とは、ズレた頭になってきているのが
分かった。不思議な穏やかさを映し、心嬉しそうに何かを心に描いているらしい
彼女の、少しばかり俗世を離れたような涼やかな横顔が、彼をもその世界に
吸い寄せるからだろうか。
取りあえず、彼女はすぐに降りるという、彼の最も初歩的で単純な仮説は
崩れた。何故、各駅停車に乗ったかは分からないが、では、さてはて、
こうなれば一体、何処まで乗っていくのだろう。気を取り直し、再び彼女
へと視線を上げた瞬間――彼は思わず、息を呑んだ。

先刻までは、あんなに嬉しそうだったのに。……何かが、穏やかに形を
変えた時のように、彼女の表情に、微妙な愁(うれ)いの影が差していた。
と思うと列車が止まり、彼女はホームに降り立った。そこから二三歩
歩いたが、すぐに立ち止まる。列車は、ホームを離れた。
他の下車した客の足並みが、時計の針のように当然に、その立ち尽くす影を、
追い抜いてゆく。
……何を見つめているのだろう。彼女は、肩から下げたバッグの上に
載せた手を、きゅっと握り、ホームの向こうに広がる小さな街に向かい、
たたずんだ。商店街の先には、すぐ民家が建ち並ぶ。古くからの家並みは、
傾きかけた午後の光に、気取らない姿をさらしていた。

彼女は、無表情だ。仮に、心の中に、「寂しい」というような感情が
浮かんでいたとしても、それすら自分で気付かぬよう、考えないように、
感じることから離れた心のまま、時と時の狭間(はざま)に身を置く者のように。
それを見守っていた彼は、何だか幼気(いたいけ)なものを盗み見しているような、
(やま)しさに追い付かれた。幾ら、ほんの数分から数十分、それきりの
些細なことと思って、また、それ以上のことは考えもしなかった彼でも、
この不可思議な情景には、触れてはならない禁忌を感じた。それに、先刻の
視線を上げる時までは、丁度、もう結構、電車賃がかかるところまで来て
しまったから、彼女が降りたら、そこで「観察」は終わりにして、折り返し
元の駅まで戻ろうと考えていたところだった。その程度の関心でしかなかった。
だから、それ以上の何かに近付きつつある自分を、彼は、今は、そこから
遠ざけようとしていた。何かから、逃げ出すように。

――彼女の瞳の行く末を見極めることなくして、彼は歩き出した。
他の客同様に、彼もまた、彼女と無関係の「周囲」の個として。
そんな臆病風に吹かれて「観察」を打ち切ったのは、これが初めてのこと
だった。ジーンズのポケットに手を差し入れ、溜息をつく彼は、足下に
視線を落とすと、チューインガムの黒いシミを、靴でこすった。
陽の当たる反対側のホームに比べて、ここは暗く、閉ざされるような
閑静さに覆われている。

やがて列車がホームに入り、開いた扉に足を踏み入れようとした彼が、
足下で突っかかったのは、隣の列に、あの彼女を見付けたからだった。

* * * *

……いつからギクシャクしてたのかな。ケンカなんて、しょっちゅうしてた。
ひとりっ子の我が儘息子のあなたと、自己主張が強くて譲らない、意地っ張りの
私だから。でも、寂しいから、すぐに甘えた。それでも、許せないこともある。

相談に乗ってもらおうと思って、柳瀬君と待ち合わせた場所で、あなたと
バッタリ鉢合わせた。「俺のいないところで、他の男と会うな」って怒るから、
「あなたは他の娘と会ってるのに、どうして私だけダメなの?」と言い返せば、
「俺はそんなことしてない」って、ウソついた。――ウソだったのよ、みんな。
私、知ってたから、悲しくなった。
……そんな小さな嘘で、私を傷つけないで。私を縛るためだけに、そんな
小さな嘘を重ねないで。あなたが好きで、いつも時間に遅れてくるあなたが
嫌いで、そんな些細なことが許せない私は心が狭いと思いもしたし、ひとに
そう言われもした。だけど私にとって、その度に許し、その度に裏切られる
ことは、一つの痛みを、どんどん押し広げられることだった。あなたにとっては
三分遅れるのも十分遅れるのも、同じ「遅刻」だったかもしれない。けど、
私にとってのその痛みは、一分毎に、どんどん深いものに変わっていった。
二回目も七回目も、あなたにとっては同じでも、私にとっては、決して同じ
痛みじゃなかった。辛かったのは、きっと、そのことを、分かってもらえ
なかったから。分かるように伝えられなかったのは私。それがなくても、
分かってほしかったのも私。……だから、責められはしないけど、それが
涙が出るほど苦しいって、私の涙を見ても分かってくれなかったあなたと、
それでもあなたを好きだった私が、苦しすぎたの。
分かってた? 一秒でも長くあなたと一緒にいたかったから、あなたの駅
まで行ったけど。あなたが駅に近い自分の家に帰り着いて、一息つく頃に
なっても、まだ私は、ひとりぼっちで電車に乗っていたことを。
――気付いてた? 私が、あなたと過ごしたと同じ……それ以上の時間を、
一人きりで過ごさなければならなかったこと。あなたが私のことを忘れて、
ソファーで目を閉じてくつろいでいても。……まだ私は、あなたのことを
考えながら、独りだけの時間を抱き締めたまま、立ち尽くしていたの。



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