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外は少し、風がある。彼女の柔らかな長い髪も、絹のスカーフの上に、そよいでいた。
信号待ちの横断歩道で、彼女に追い付く。彼が「観察」と呼ぶ、知的探求心に基づく
行動の始まり。別に、何というほどのことではない。ただ、彼が興味を惹かれた「対象」の
様子をしばし観察し、仮説を検証したりするだけのことだ。休日、普段着の父親らしい
男性の行動様式等から、職業その他を推察したりすることに、どれ程の学問的価値が
あるのかは謎だが、彼は、週に一度は、この「観察」を楽しんでいた。

彼女は、中央線の最寄りの駅へと、真っ直ぐに歩く。思いがけない傍観者の存在など、
知りもせずに。階段を昇り、切符を買う。彼女が何処まで買ったのかは分からないから、
乗り越し精算をすることにして、とにかく彼も、ホームへと降りていった。すると折良く、
中央特別快速が来たが、彼女は後ろに下がった。……ということ、そんなに遠くには
行かないのだろう。まぁ、そんなごく簡単な引き算は、彼の学問の内にも入らない。
その後ろ側の各駅停車に乗ると、彼女は扉の横に立ち、銀の手すりに背を凭(もた)れ、
じっと車窓に目を向けた。ふうわりとした髪が、シックで大人びたスーツを着ていても、
可愛らしさを感じさせる。ほっそりとしていて、それでいてしっかりと張った肩。
意外と、気が強い性質(たち)かもしれない。彼はそれを、反対側の扉の横から、眺めていた。
これから、待ち合わせだろうか。恋人と? ……何かを見つめる眼差し。この、列車の中
という閉鎖的空間の中で、彼女は、そこにおける何にも、どんな存在にも、目を向けては
いなかった。何かを――それ以外には無関心に――自分が望む世界だけを、見つめている。
それは、彼女を見ている彼に、不思議な印象を与えた。彼女を見ていると、まるで自分も、
その世界には、存在していないもののような気がする。木や石のような、非情のもの。
或いは、水や風といった、目に見えがたい存在……になっているかのようだった。
彼女は、何処を見ているのだろう。遠い、優しい瞳。他の、何もかもが見えないほどの
「思い」。時折、ふと、唇に浮かぶ微笑。何を思って……待ち焦がれて。
これからの出会いは、何処にあるのだろうか。

* * * *

あんまり可笑しなことばかりあるから、あなたとのことを妹に話す時は、いつも、
笑うの我慢するのが大変。大体、つきあい始めた時の言葉が、「好きだよ、美穂ちゃん」
だもの。……友達の名前と間違えて告白されたのって、きっと私くらいよ。「あ、違った」、
なんて。その後になっても、「真紀ちゃん」とか「由美ちゃん」とか、何回も間違えて。
いつになったら覚えてくれるのって、呆れちゃった。初めてキスした時だって、通りすがりの
酔っぱらいオヤジに邪魔されたり。もっと場所を選ぶべきだったよね。でも、あなたも凄く
緊張してたのは分かってた。段々慣れて、格好ばっかりつけるようになっていったけど。
そういう時には、じぃーっと見つめて――「鼻毛出てんだよっ」。一瞬、「えっ……」と
真っ青になるところが、地なんだな。そのくせ無理して格好付けてるんだから、子供みたい。
ちやほやされるのが大好きな、すぐにおだてられる「お間抜けさん」。
だけど、私の我が儘に付き合ってくれる時は、どんなあなたでも、大好きになれた。
私、すぐ物欲しそうにするから、分かっちゃうんだろうな。プール行った時、隣の小学生が
カップヌードル食べてるの見てたら、私も欲しくなっちゃって、そっちの子の方、じぃーっと
見てたら、「欲しいんですか? ……プールに来て、何でカップヌードル食うんでしょうねー」
って、溜息ついても、ブツブツ言いながら買ってくれた。そいでも、すぐ飽きるから、半分位で
「もういい」って、あなたに押しつけちゃったっけ。そしてまた何か見ると、すぐに欲しがっちゃう。
「えー、もう兄ちゃん金ないよー」って、何回言わせたかな……。でも、別に買ってくれなく
ったって、良かった。本当よ? 一緒にいるだけで、楽しかったから。だけど、どんなものでも、
露天の大玉アメでも、あなたが買ってくれると、すっごく嬉しかった。そしてあなたは、私の
喜ぶ顔が見たくて、つい買ってくれちゃうんだもん。でも、買ってもらったものも、一番高くて
ゴジラのぬいぐるみだったから、そんな極悪じゃなかったと思うの。おままごとしてるみたい
だって、友達には随分笑われたけど、それでも良かった。……楽しかったよね。



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