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「ある日」 君は 一時間だけ 僕のヒロイン ――架空の駅にて
序
窓際の席に目をやると、ジノリの白磁器から立ち上る、幽かな湯気。
華奢なカップと、そこにかかる、白い指。
「えらく待遇が違うよな。これ、ノミの市で1個十円で買ったヤツじゃないの?」
カウンターの“閑人(ひまじん)”は、自分のプレーンな白いマグカップと見比べてボヤいた。
「二個十円だ」
「まじかよ。あ、『カルボーン』って書いてあるー」
「……おまえさんにゃ、寿司屋の湯飲みでも不相応だよ」
皿を拭きながらマスターが呟く。髪は薄いが、こだわりを持つ通人で、客を見て、
使う器も決める。それを知っている常連だから、それは気にせず、またちらりと視線を流す。
「彼女、学生時代からの常連……と言いたいが。OLじゃあないしな。院生?」
彼の言葉に、今度はマスターが溜息をついた。
「また始まったか。人間行動学科だか何だか知らんが」
「健全なる、アカデミックな興味だよ。今時珍しい、勤勉な学生だろ? ……それにしても俺、
初めてだな、彼女。何でだろ」
「おまえ、いつもは夜の部だろう」
中央線沿いの駅前だから、人通りは絶えないが、この昼下がりは、丁度ランチの客も
引ききった頃合いだった。落ち着いた喫茶店は、宵の頃にはカウンター・バーへと
姿を変える。その、昼の顔。……彼女が座る窓際の席は、日差しが、レースのカーテンの
ようにけぶる。何事が起こるとも思われない、穏やかな午後のひととき。
「変質者と大差ない学問だな、おまえのは。妙なもんからは早く卒業したらどうだ。
そういや、できるのか? 卒業」
言われて、彼はカウンターに肘をつき、ぐいっと身を乗り出すと、
「失礼こいちゃうねー。研究者にも“モラル”ってもんがあるんだよ。これまでだって、『対象』に
不快感抱かせたことはない、これだけは自信持って言えます」
「それと卒業できるかどうかが、どう関係あるんだ」
「万一、『引っ張られた時』には、俺の研究熱心さの証人になってくれよ」
――知るか、とマスターは背を向けようとしたが、その瞬間、あの女性が席を立った。
「おい……おまえ、あの娘(こ)は、」
「え?」
早速席を立ち上がった彼が振り返ると、マスターは気まずい表情で、「何でもない」
というように、首を振った。その奇妙な様子に、彼は少し首を傾げた。だが、すぐにいつもの
お調子者の笑顔に戻ると、それをチップに、店を出た。
――偶然の興味。それだけの、何気ない始まり。
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