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僕は二年生。カナエさんは四年生になった。四年生ともなると、就職活動やら何やらで、
「ジェンダー研」に限らず、サークルに顔を出す人は、めっきり減る。カナエさんの場合も、
また然り。新入生の中には、カナエさんのことを知らない者もいるほどだった。
そして僕の出席率もガンガンと落ちてゆき、夏休みが終わる頃には、すっかり「ジェンダー研」
と疎遠になっていた。そして秋には、正式に「ジェンダー研」を辞めてしまった。
……別にユーレイ会員でも良かったのだろうけれど、僕なりのケジメだった。
「カナエさんのいない場所(サークル)」――僕は、それに耐えられなかった。だがカナエさんも、
あと数ヶ月もすれば、この大学を卒業してしまう。その後……僕は、どんな風に、自分の時を
過ごすのだろう。「カナエさんのいない大学」で。

そして年末。冬休み前、僕の耳に、二つの噂が届いた。
一つ、「カナエさんが恋人と別れた」ということ。
二つ、「カナエさんがアメリカの大学院に進学する」ということ。
「ジェンダー研」にいれば、もっと早くに分かったことかもしれなかったが、それは仕方がない。
僕は、もう数ヶ月もカナエさんに会っていなかった。こんなに小さな大学なのに、会いたいと
思うたった一人のひとを探そうとすると、なかなか容易ではない。僕は、もうすっかり悲観的に
なっていて、なるべくカナエさんのことを思い出さないようにとばかり考えていたのだが、
その二つを聞いた瞬間に、自分が受けた衝撃の大きさにより、その数ヶ月の努力が、
如何に無益なものであったかを思い知った。
一瞬にして、僕の胸の内には、カナエさんと、その翼の、優雅にして高貴な美しさが、
ありありと蘇った。そして今、あのひとは、どれほどに美しくなっているのだろう。
……それを見たいような、見たくないような、ちぐはぐな思いが、心を揺すぶった。
大学の近所に住むカナエさんを訪れようと、何度か思っては、思いとどまった。
訪れたところで、何を言って何をすれば良いのかを考えると、ちっとも分からなかったからだ。
カナエさんが恋人と別れた。……それは嬉しい。留学してしまう。……嬉しくない。
でも僕は、カナエさんの新しい恋人になろうなんて思わないし、留学をやめさせたい
とは考えなかった。ただ……カナエさんに会って、話したかった。何を、と聞かれても
困るけれど、今の僕の気持ちを表すとすれば、それしかない。


その数日後の土曜日。僕は本屋に行く途中、駅前で、ばったりカナエさんに出くわした。
「遠野君、ひっさしぶりぃー! 元気だった?」
カナエさんは、必ず僕のことを、“遠野君”と呼んでくれる、数少ない存在だった。
「香苗さん、学校来てますか? 全然会いませんけど」
「うーん、ゼミの時だけ。講義はもう、取ってないから」
――それより、ね……と、カナエさんは、ぐっと僕に顔を寄せた。出会った頃はショート・ヘア
だったが、今は、それより少し長くしている。相変わらず、ほつれた巻き毛のようだったが。
「映画行かない? 今、新宿まで、リバイバル見に行こうと思ってたんだけど」
僕は、ビクッとした。誘い……カナエさんから、誘われている。こ……これは俗に言う、
“チャンス”では? しかし、何の。ああ、それにカナエさんの背には、やはり“あれ”が
見える。あの翼……あの白い翼の、真珠と水晶を重ね合わせたようで、触れたら
砂糖菓子みたいに壊れてしまいそうな美しさが、僕を阻む。
「何か、用事があるの?」
カナエさんの前髪の一房が、僕の頬に触れるほどに近付いた。分かってる……あの翼は、
ただの幻――ユーレイみたいなもの、背後霊だと思えば……!
「――いいえ、有りません、行きます!」
もうちょっと黙っていれば、カナエさんと僕の額が、ぶつかっていたかもしれなかった。
「そ……嬉しい。じゃ、行こっ」
カナエさんは、にっこり笑った。そして、スッと僕の先に立つ。僕は、その背を……
ずっと見続けてきたその背中の翼を、しみじみと見つめた。
「……どうしたの?」
ほんの数秒のことだったのだろうけれど、立ち尽くしていた僕を、カナエさんが振り返った。
「遠野君……私の後ろ姿が好きなの?」
「え……」
カナエさんは、ふふっと笑って、首を傾げた。
「『ジェンダー研』に初めて来た時から……何だか君は、私ばかり見ていた。というより……
 私の、“うしろ”?」
僕は、心臓を握られたような気がした。
「そう言えば遠野君、辞めちゃったんだって? 『ジェンダー研』の方」
不意に話が逸れて、僕はホッとした。そして、改札口までの階段を、一気に登る。
「え? えぇ……」
理由を聞かれたら何と答えようかと、焦って考えたが、カナエさんは、何も聞かなかった。
まさか、「カナエさんがいないから」……なんて、言えっこない。
「何の映画見に行くんですか?」
「んー、時代劇」
何というか……イガイな趣味。まあ、リバイバルだから、フランス映画か何かかなと、先入観を
持っていた。
「深夜映画で一回見たことがある奴なんだけど……ちょっと考えさせられるものがあって」
今日は久々に、カナエさんとの談義に花が咲くかもしれない。何だか、ワクワクする。

映画は、1960年代の大映作品で、かつての映画スター達の競演とあって、劇場は
老若男女がひしめき、何だか新鮮な感じがした。おばさん達は青春の頃を思い出し、
娘達は、過去に浪漫を探している。そして……カナエさんは?
映画自体は、やはり古さこそ感じさせるものの、目を見張るほどの鮮やかさに彩られていた。
着物といい、屋敷のセットの内装といい。僕は、まず話の筋よりも、そういった鮮烈なイメージに
魅了されていた。あれらは皆、「本物」の輝きだ。今のように、映画が娯楽の帝王としての
権威を失ってしまった時代ではなかった、過去の遺産だと思った。
ストーリーは、殿様と腰元の、身分違いの恋という、定番のメロドラマ。殿様の愛に疑いを
抱いた腰元が、殿様の心を試し、そのためにお手討ちにされ、殿様もその後を追って切腹する
というものだった。いや、実際にはもっと色々、込み入った事情やジレンマの嵐があったのだが、
結局は、愛し合っていたが死んでしまった二人の話だった。

「――くだらない」
映画館を、一歩出た途端のカナエさんの呟きに、僕は一瞬、耳を疑った。
その一言のインパクトが、あまりに強くて、電車に乗って元の駅に帰ってくるまで、
僕はほとんど、口を開くことができなかった。
時刻はまだ5時過ぎだったが、冬だし、曇っていたしで、もう外は真っ暗だった。
まだ時間が、夕食には早過ぎて誘いにくいし、別れ際にしても、ちょっと。
……どうも、ほんの微妙なタイミングが悪い。いつも、いつも。
やはり僕は、カナエさんの後ろ姿を見ながら、駅の階段を降りた。そしてますます、
声をかけられなくなった。あの、カナエさんの背中の白い翼が……本当に、もう透き通って
しまうのではないかと思われるほどに、美しく見えたからだった。
――間違いない。カナエさんは今、傷ついている。そして、それに気付くすべての存在を拒否
するかのように、カナエさんは、その翼と共に、神秘的な美しさの中に、自分を閉ざしてしまう。
そして、僕は……

「遠野君……学校、行かない?」
駅の階段を降りきったところで、不意にカナエさんが振り返った。僕は、「へ?」と目を丸くして、
立ち止まった。カナエさんは、どういうつもりなのかは分からないが、土曜日の、それも夕方
……誰もいないはずへの大学へと、僕を誘った。
「夜と……二人きりになりたいの。でも、やっぱり寂しいから、遠野君と一緒に」
――“夜と、二人きり”
不思議な言葉だった。確かに、独りになりたいのであれば、冬の夜の大学は、打って付けの
場所だろう。今夜は曇っているから、「星空同好会」の連中もいまい。
「遠野君さ、今日の映画。どう思った?」
大学は、寒い。だだっ広くて、人口密度の低いキャンパスは、門を一歩入ると、あきらかに
気温が下がる。カナエさんの口からこぼれる吐息も、白いカゲロウのように立ち上った。
「なかなか……面白いと思いましたよ?」
「あの二人は、幸せだったと思う?」
「幸せ……なんじゃないんですか。結局、生きている間は結ばれることはなかったけど、
 本当に愛し合っていたんだから、死んでからは……」
「――生きてる間、男の言葉を信じられなかったような女が、どうして『死後の世界』なんかを
 信じられるのかしら」
カナエさんの言葉に、僕はハッとした。カナエさんの翼が、微かに震えた。白い影の残像……
「本当に、バカみたい。何のために命まで賭けて、愛を試したり、恋を貫こうとするの」
僕は……カナエさんのことを、もう直視出来ないのではと思い始めていた。――内で、密やかな
火を燃やす、水晶のカケラのようなカナエさんの美しさが、目に……心に、痛かったからだった。
痛い……ズキズキと。何故、こんなに痛いんだろう……。
「ホントに……そう思うんですか」
今度はカナエさんが、僕の言葉にハッと顔を上げた。そして僕の方を向いた。僕は、目を
逸らしてはいけないと、ぐっと拳に力を入れた。小高い丘の上の二人は、背後の本館からの
灯りに照らされ、何処にも行き場がないように、立ち尽くしていた。
そう、僕等は何処にも行けない。この“舞台”から、飛び降りる以外は。



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