「Winter White Rain +α」へ          NOVELSへ           TOPへ






二年前の、初めてカナエさんを見た日から、今日のこの夜に至るまで、僕は、どうしても
踏み越えられなかった「何か」を、今……越えようとしていた。
「本当は……羨ましいんじゃないんですか? あの二人のことが」
翼が……僕の果敢な挑戦をあざ笑うかのように、儚げな美しさを震わせる。その弱みを
逆手に取っている。だが……負けるものか。
「……どうして。そんなこと言うの?」
カナエさんは、特に怒ったようだけでもない。ふっ……と笑って、慈悲深き聖母のような
眼差しになった。次から次へと、新しい美しさに包まれてゆく。
「……そんな、気がしたんです。本気で『くだらない』なんて、言ったようには思えなかった。
 そんな感じじゃ、なかったから」
「遠野君の、イージワルっ」
「えっ……」
カナエさんは、吐息が触れるほどに、僕に顔を近付けたかと思うと、冷たい指先で、僕の頬を
つねった。寒かったので、つねられた所が、いつまでも消えずに痛い。
「……そうよ」
カナエさんは、そっと僕の耳元に囁いた。そして、唯一の温もりの吐息が、僕のうなじにまで
かかった。その瞬間……僕は、大変な悟りを開いてしまった。
「その通り。――私は……あの、愛するお殿様に、『お手討ち』にされて死んだバカな女が、
 羨ましいの」

僕は……カナエさんが、好きだったんだ。

「大体、恋してる女なんて、バカなの。だから可愛いし、強いんだけどね」
いや、そんなことは、ずっと、ずっと前から分かっていた。僕は、あの大学の合格発表の日に、
カナエさんに一目惚れしていたのだから。
「その愛に疑問をいだく……男を疑ってしまうっていうのは、いわばほんの一瞬、『正気』を
 取り戻してしまうってことなのよ。その一瞬さえ訪れなければ……ひとは、恋に、愚かなまま
 耽溺して。でも、幸せなの」
僕は、カナエさんを見つめてばかりだった。何かしら、手の届かぬ人のように、気が引けて
しまっていたけれど、本当は側にいて、触れて……深く、知り合いたかった。
「だけど、その男を試して……あの映画じゃ、お殿様は潔白(シロ)だったから、ドラマに
 なったのよ。でもね……試した男が、大当たり!……じゃ。シャレにもならないわ」
僕は――目に、胸に痛々しいほどの、カナエさんの美しさよりも、カナエさんの体温を
感じたかった。ずっと、ずっと。
「でも、どっちも同じようなもんかな。『疑った私がバカでした』、か、『あんな男に惚れた
 自分がバカでした』……か」
カナエさんは、ふっと溜息を落とし、前髪をかき上げ……そして、クスクスと笑った。
その時の表情。もうそれは、この世のひととは思えぬほどの、霞むような美しさだった。
こんなにキレイになってしまっては、もう後は死ぬしかない。――そんな愚かな妄想を
引き起こすほど、まさにカナエさんは、天使のように神々しい姿になりつつあった。
「羨ましいよ……ホント。だって、結局彼女は、本当に愛されていたんだもの」
僕は、背筋がザァーっと寒くなった。ぐっと下がった気温のせいだけではない。
カナエさんの白い翼が……大きく、広がるように見えたからだ。

そうだ。大体初めから、僕とカナエさんの間を阻むものなんて、何一つ無かった。
この、「翼」以外には。だがこの翼も、僕にしか見えないもの。つまり、僕にだって、
本当は、見えないはず。阻んでいたのは……僕自身。

「……香苗さん」
「なぁに」
「そこで、終わりじゃ……ないですよね」
僕は、遠くばかりを見つめるカナエさんの眼を、必死で捕らえようとした。
「試した男が大当たりっ!……で別れても、香苗さんの人生は、まだまだこれからですよね」
「当たり前でしょ。何言ってるの遠野君。……男ひとりに、人生棒に振るほどのバカでいられたら、
 今も幸せに過ごしてたわよ」
カナエさんは、まだ遠くを見つめている。僕は必死で、月並みな言葉を並べることに、
精一杯だった。
「そうですよ。世の中に男はまだまだ沢山いて、おまけに香苗さんは素敵な人だから、
 香苗さんを好きな人は大学の中だけでも沢山いるし、香苗さんは自分にふさわしい人を
 見つければ良いんです」
「遠野君は?」
「僕も……香苗さんが好きです」
カナエさんが、ちっともこちらを向いてくれないので、僕はむつけた子供のように、言った。
思えば随分、アッサリと言ってしまったものだ。
「ホント……どれくらい、好き?」
「……日本海溝に身投げしたくなるくらいです」
寒さで思考がマヒしていたと考えても、無茶苦茶な答えだった。
「じゃ、私のために、死ねる?」
「香苗さんと……自分のために死にます」
「――君も、相当バカになってるね。遠野君」
言われてみると、いつの間にか僕は、「ただのバカ」だった。しかし、カナエさんは笑うでもなく、
溜息をつくと、やっと僕の方を向いてくれた。そして……とんでもないことを言った。
「私のために、死んで頂戴」
真顔で言われて、僕は面食らった。
「……は?」
「ここは断崖の上です。そして遠野君は、落ちればとても命は助からないと思われる谷底に、
 身を投じます」
「あのー……ここが、ですか?」
ここは、枯れた芝生に覆われた、なだらかな丘。身を投じると言ったって、ゴロゴロ転がって、
草まみれになるのがオチだった。
「で……僕は、谷底で死ぬんですか」
「違うのよ、奇跡的に助かるの」
「……はぁ?」
「まぁ、まず死んでみてよ」
「ぉわっ!」
僕は、僕の天使に、谷底へと突き落とされた。

ゴロンゴロンゴロンゴロンゴロンゴロン。

「……」
少し、痛かった。が、僕は耐えた。転がるに任せて、身を投げ出した。
「まだ起きちゃダメよ! そう、あなたは死んでしまったの。これから私が、あなたのために、
 泣いてあげるわ」
目を閉じて聴くカナエさんの声は、妙に芝居がかっていて、何だか可笑しかった。
けれど、「遠野君」と、僕の名を呼びながら駆け下りてくる時の、その声は、本当の悲哀に
満ちたようで、僕は奇跡を待つ死体の役を、難なくこなすことができた。
「まだよ……まだ死んでるんだから、眼を開けてはダメ」
カナエさんの、少し伸びた髪の先が頬をくすぐって、僕は眼を開けそうになったが、
カナエさんに止められた。
そして、その数秒後……

――僕は、お姫様の口づけにより、生を与えられた。

そして、眼を開けた僕の前に起こった、二つ目の奇跡。

 “……羽根?”

僕の視界一面に、ぶわぁーっ、と、白い羽毛が舞い飛んだかのように見えた。
だがすぐに、それが大粒の牡丹雪であると分かった。……いつの間にか降り出した雪。
実に、良いタイミングだった。二人寄り添う口実には、事欠かない。

その後……僕は、カナエさんの背中に翼を見ることは、二度と無かった。


カナエさんは、この大学を卒業し、外国へと旅立っていってしまう。
……もう、そんなに時間は残されていない。

――僕はそろそろ、「カナエさんのいない国(日本)」にあって、どんな風に過ごしていくのかを、
真面目に考えなければならなそうだ。










「Winter White Rain +α」へ          NOVELSへ           TOPへ