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“Pain”



ゆっくりとパックをはがすと、コットンに化粧水をたっぷり含ませて、肌に当てる。
その途中で、鏡の前に腰掛けたまま、恵利子は溜息をついた。……何だか、不意に
何もかもが、虚しく感じられた。毎朝毎晩繰り返してきたスキンケアにヘアケア。
爪だって、手入れしなければガサガサになってしまうことを、巧は知らない。
どれだけ彼女が努力しているかには、ちっとも気付かない。考えもしないだろう。

巧は、恵利子に優しく、恵利子を大事にしてくれているが、彼女のことを、「可愛い可愛い」
と言ってくれるのが本心であっても、「可愛くて当たり前」と思っている節があることを、
恵利子も分かり始めていた。大体、新しい服でも口紅でもジュエリーでも、巧は気付いた
試しがない。気付くのは、いつも、出会ってわずかな真紀絵の方。その、ワンパターンな
愛情に不満を抱いているわけではない。
世の中には、何もしなくても、あんなキレイな人がいる。真紀絵のことを見ていると、改めて
自分のことを見つめ直させられた。今まで、美容に余念の無かった自分と、そんなことには
全く無頓着な真紀絵。しかし真紀絵の、何にも飾らない、化粧もなく、服装もシンプルな
中に光る、仕草や表情の際立ちに、どうしても、何かが勝てない気がする。
……別に、真紀絵と張り合うつもりはない。大体、タイプが違いすぎる。ただ、恵利子の
自分に対する不満は募っていくのに、巧は相変わらず、「可愛い可愛い」と言うばかり。
もしかしてこの男、見る目がないんじゃないの? とまで思ってしまうほど、恵利子は
苛立っていた。もし自分が男なら、こんなに近くにいる真紀絵を、放っておいたりはしない。
ただの幼なじみのままではいない。友達のままにはしない……しないのに。
その一方で、「可愛い」だけの自分に、いつか巧が気付いてしまうのではないかという不安が、
育っていった。――何もかも、不満ばかり。自分に、巧に。そして、不安ばかり。

恵利子の劣等意識の拡張とは裏腹に、真紀絵は、本当に彼女のことを大事にしてくれた。
巧に接近して、どきっとさせるかと思うと、慈愛に満ちた瞳で恵利子を見つめ、彼女の方が
気恥ずかしくなるほど。そう……真紀絵はまるで、巧と恵利子の両方を、大らかに愛するよう
だった。謎めいた彼女の微笑みは、いつも美しく、恵利子を困惑させる。

――怖いね……馴れ合いは怖いね。本当に……。

そんな言葉が、頭の中を駆け巡る。彼に一つの言葉を求めたなら、せめて不安は快癒する
ように思われたが、今は、それを待っていたかった。甘えの行為とは思っても。
巧が自分のことを、そして真紀絵のことを、どう思っているのかに悩んでいることには、
気付いてくれなくても良い。ただ、いたわってほしかった。しかし、現実は……

――たくの、鈍感っ!

あまりに鈍い彼に腹が立って、ちょっとしたことで喧嘩するようになってしまった。自分ひとりが
ジェラシーなんて情けなさ過ぎるから。彼に冷たくして、遠ざけて……それなのに、巧はまだ、
「何かが違う」ことに気付かない。またすぐに、恵利子の機嫌が直るだろうと、宥める方法ばかり
考えて。恵利子は、まるで彼を怒らせようとするように我が儘を言い、自己嫌悪を募らせてゆく。
それを止めるには、巧が腹を立てて、恵利子に不満をぶつけなければいけない。けれど、
いつまで経っても、そうはならない。彼に対する苛立ちが、理不尽なことは分かっている。
でも……。

「――はい、プレゼント」
気が進まないデートに、活気を与えようとするのか、巧がディナー・テーブルで、恵利子に
小さなベルベットの小函を渡した。今夜の店は、今までにないくらい奮発していた。
それなのに、ちっとも浮かない顔の恵利子に、流石の「ニブたく」も、そろそろ不審に
思い始めたか。恵利子は、黙ってそれを開けてみた。
「誕生日には、まだ早いけど。……何だかエリ、最近ずっと元気ないから」
欲しかったはずの、ステディ・リング。プラチナとゴールドの台に、小粒のダイヤが並んでいる。
高級感があるけれど、嫌みのない、上品なデザインだった。
「……随分、高かったでしょう」
「ん、まぁ……でも、一生ものだからさ。それより、気に入った?」
もしここで、「気に入らない」と言ったら……どうなるのだろう。二人は。――勿論、試してみる
気は、毛頭無い。
「有り難う。でも……良いのかな。誕生日でもないのに」
巧は、そんな彼女の言葉に耳を疑うように、
「エリ、本当にどうかしちゃったのか? 妙にしおらしくなっちゃって」
「私、今まで、そんなにひどい女の子だった?」
「あ、いや……そうじゃなくて」
――何を、しているのだろう。一言ごとに、もどかしさが広がっていくようだった。
「マキも心配してたぜ? 何だか元気がないって」
その言葉が、二人の間に、ガラスの壁を築いてしまった。恵利子の挙動も、凍り付く。
真紀絵の指輪が、瞼にチラついた。自分がこの指輪をはめたとして、あの時、真紀絵の指に、
溶けるような光を灯したガラスの美しさを、超えられるだろうか。
「私……こんなことしてもらうだけの、価値があるの?」
恵利子の呟きに、巧は困惑の表情を浮かべた。
「恵利子……もしかして、負担なのか? そういうの」
「そうじゃない、そうじゃなくて、だって私、最近……」
何と言ったら良いのか分からない。巧が嫌いなわけではない。きっと、好きだから、だから……
巧が真紀絵になびいているわけではない。真紀絵が巧を奪おうとしているわけでも、
さらさらない。
情けない、情けない……――何のための嫉妬? すべては、真紀絵に対するコンプレックス。
自分が情けなくて、それを直視するのが辛くなる。巧に、そのやり場のない苛立ちをぶつける。
でも、それは嫌、もう嫌。だから自然、離れてしまう。自分の甘えと我が儘を、これ以上彼に
ぶつけたくない。彼に、それが何であるかに気付かれる前に、逃げ出してしまいたい。
もう、自分の中にあるのが不満なのか不安なのか、それが誰に、何に対するものなのか、
そういったことも入り乱れて、訳が分からない。ただ辛くて辛くて、あの真紀絵の大らかな
眼差しも、巧の優しい表情も、今は混乱の元でしかない。
――そして今、こんなに寂しい。
勝手な言い分でも、巧と一緒にいられないのが、こんなに寂しいことだなんて、今まで
知らずにいた。訳も分からず、途方に暮れたまま、このまま離れてしまうのか。
もう、ダメなのだろうか。……馴れ合いで始まったからといって、そんな悲しい終わり方しか、
二人には無いのだろうか。



――雨が、降っていた。暗い日……。もしかしたら、今日かも知れない。「さよなら」に
ふさわしい、泣きそうな日。終わりまで数える方が、近くなってしまった月日。
憂鬱な思いで講義を終えて、本館から出てきた所で、恵利子はハタと立ち止まった。

細い雨の糸の下に、水色の花束(ブーケ)のような傘。うつむいていても、真紀絵だと分かった。
疚しさから、そのまま通り過ぎようとした恵利子は、はっしと腕を掴まれ、振り返り……思わず、
ぎょっとした。傘の下から覗かせた真紀絵の形相は、顔中、痣(アザ)と絆創膏だらけの、
ひどいものだった。
「巧と、やり合っちゃったの」
えっ……と、恵利子は息を呑んだ。――二人は、一通り学生の往来が過ぎるまで、
じっと立ち尽くしていた。
「……ひっどいよね、アイツ。本当に私のこと、女だと思ってないのね。顔殴るし……」
あまりの光景に、恵利子は一瞬、すべてのわだかまりを忘れて、うつむいた真紀絵の
表情を、息を詰めて見守った。
「あいつさぁ、ひっ……どいよね、ホントに……死ぬほど、鈍感だよね……」
ふと視線を上げ、恵利子を見つめた瞳が、水っぽく揺らいだ。恵利子は、そんな彼女の
現象が信じられず、ただ立ち尽くし、その瞬間を見送る。

真紀絵は、水色のブーケを、鈍(にび)色の空に、ほうった。
彼女の上に、降りしきる雨。艶やかに髪を潤す雫(しずく)の美しさに見とれ、恵利子は、傘を
差し出すこともできなかった。真紀絵の頬を滑り落ちた、幾多の雫。そして……小さな呟き。
「――ごめんね、エリちゃん……ごめん……」
そして彼女は、その言葉の意味を、恵利子が問い返す間もなく、恵利子に抱きついた。
雨の雫とは異なる熱さが、恵利子の頬にも触れた。
「ごめんね……好きになって……本当に、ごめんね……!」
震える声が、雨の響きよりも弱かった。

彼女が去った後に残されたのは、放り出された、水色のブーケ。



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