「水色の花束 "Pain"」へ          NOVELSへ           TOPへ


“No Toy”



巧を探してキャンパスを歩いていると、本館前の「お山」の裾野で、芝生にまみれて
フライング・ディスクをやっている姿を見付ける。恵利子は、声はかけずに、黙ったまま
ハンカチを下に敷いて、芝生の上に座った。今の季節、芝生は水を含んでいて、
すぐ草の汁がしみてしまう。まして、あの混沌の集団に飛び込んでいくことなど、
彼女には考えられぬことだった。そんなことをすれば、緩く三つ編みにした髪も、
草まみれになってしまうだろう。
「バーック! そこでカットぉ、だってば巧っ!」
高く澄んだ声が、青い空に突き抜けるように通る。真紀絵……まだ入学して何ヶ月も
経っていないのに、すっかり周囲と馴染んでしまった彼女が、男顔負けの健脚で、
フィールドを駆け回っている。彼女も、長い髪を三つ編みにしていた。離れた所から
見ても、健康的な輝きに弾むような黒髪だった。
「あーっ、ダメじゃーん」
敵にゴールを決められて、芝生につんのめる。そんな時も陽気で、大らかだった。
きっと彼女は、ためらいなど、知らないのだろう。戸惑いも、陰りも。そんなものとは、
一切無縁に見える。――恵利子がそんなことを考えていると、天を仰いだ後に
立ち上がろうとした真紀絵と、目が合った。恵利子は、不意をつかれたようにビクッとしたが、
真紀絵は膝をついたまま、ニッコリ笑うと、オーバーなアクションで、投げキッスをよこした。
そして立ち上がると、巧に駆け寄り、恵利子のことを指し示した。やっと気付いた巧は、
大きく手を振った。
「エリーっ、あとちょっとな! 名誉挽回してから」
恵利子は、ちょこっと手を振って応える。
「どうしたのエリちゃん。元気?」
メンバー・チェンジしてきた真紀絵が、恵利子の隣に座った。タメ口きいているのは、
校風もあるが、学年こそ違えど、それは真紀絵が帰国子女で一年降りていて、年齢は
同じであるからだった。
「日本の高校は好きだったけど、早く巧と同じ大学に行きたくて、帰国子女の資格で
 受験しちゃった」
そう話す真紀絵の言葉に、「何言ってんだよ」と笑い飛ばす巧とは対照的に、恵利子は
何だか、ますます毎日が落ち着かなくなっていった。
「エリちゃん、それ、新しいブラウスでしょ。可愛い」
「え……あ、そう。……有り難う」
ぎこちない笑み。Tシャツにスウェット・パンツの真紀絵は、膝頭にアゴを載せて、ふふっと笑う。
うっすらかいた汗の玉が滑る額は、素肌の内からにじみ出るような潤いに満ちていた。
「エリちゃんは、ちゃんと自分に似合う色を分かってるのね。良いなぁ、そのシャーベット・
 オレンジ。何だか喉が渇いてきちゃう……」
じっと真紀絵に見つめられると、意味深な感じがして、恵利子は緊張してしまう。
「は、走ったからじゃない?」
「あ、そうかー」
真紀絵が額をペチッと叩いて、すぐに緊張は解ける。彼女の、無意識とも配慮ともつかない
リアクションで。
「うー、シャワー浴びないと、あせもになっちゃうよ」
「マキさん、肌弱いの?」
「子供の頃、アトピーが酷かったの。今は、それに比べると全然良いけど」
「……じゃ、お肌のケアは念入りなんだ」
何故か納得したように、身を乗り出し気味になった恵利子だが、背筋を伸ばした真紀絵は、
「別に」と否定。
「え? クレンジングとか……、化粧水とか乳液、何使ってるの?」
「面倒でさ、何もしていない。水で洗って、タオルで拭いてるだけ。ヘタな石けんだと
 かぶれるしね」
「じゃ、水は? 精製水? エヴィアンとか……」
「エリちゃん、色々詳しいみたいだねー。いやー、そうか、エリちゃんのプリティなフェイス・
 アンド・ボディは、その恒常的な不断の努力に培われているものなのね」
うんうん、と真紀絵は感心する。しかし恵利子は、信じられない現実に対面し、茫然としていた。
「やっぱ、それって巧のためなわけ? そうだよね……そんなメンドウなこと、私にゃできないもの。
 恋する乙女が美しいのも道理だわ。くぅーっ、妬けるねぇ」
「――マキさん、シャンプーは何使ってる?」
だめ押しか、あきらめの悪さか、再び恵利子は問いかける。真紀絵は、「うんっと…」と考えて。
「いつも違うんだよね。母さんが、その時々でセールになってるの買ってくるから。昨日なんか、
 切らしてたから、オヤジさんのトニック・シャンプー使ったな。あれって、スカーッとして
 気持ち良いけど、頭の毛、全部抜けちゃうんじゃないかって思うくらい、スゴいね」
……そんな、馬鹿な。恵利子は、ムキになりそうな自分を、必死に抑えた。絶対、何か
トリートメントとか、オイルパックとか、とにかく髪には何らかのケアをしているハズだと、
言い聞かせるように思いこんでいた。しかし、言われてみれば確かに、真紀絵の美しさ
というのは、「飾らない」ということ、そのものだった。何の作為も、意図もなく、ただそこに
存在する、あるがままの姿。
「エリちゃんは良いな、可愛くて。私も見習うべきかな。……ね、エリちゃん?」
そっと手を取られて、口付けられる。その瞳も、戸惑いを覚えさせるほどに、慈愛に満ちた色。
恵利子は苦笑するしかなくて、
「良いよ……だって、マキさん充分キレイじゃない。何もしなくたって……」
初めて会った時の、あの、洗いざらしの木綿のシャツのような香りが、真紀絵のすべてを教えて
くれていたのだと、今更に思い知る。優しくて、柔らかで、大らかで、懐かしい暖かさの感触。
……その、口づけも。
「爪の先まで、巧のため……ね」
ちろっと視線が上がる。恥ずかしくなって、恵利子は横を向いた。
「やだ、マキさん……あんまり苛めないで」
それ以上のことはせず、真紀絵はそっと、彼女の手を離してくれた。そして、おもむろに
襟元に指を入れると、細い銀のネックレスを引っ張った。ゲーム中は危ないからと、
外していたのだろう。小さな指輪が、チェーンに通されていた。
「マキさん、それ……」
真紀絵が、何気なく小指にはめた指輪に、恵利子は目を留めた。草色の、ガラスでできた、
子供のおもちゃのような……
「ああ、これ。子供の頃からの、宝物。もう、小指にしか入らないんだけどね。こうしてみると、
 なかなか綺麗なもんでしょ?」
日の光に透かすと、きらきらと溶けるように光る。
「うん……本当に……きれい」
芝生の上を転げ回って、草の匂いに抱かれるように息をしている真紀絵には、その指輪が
本当によく似合う。きっと、どんな高価なものよりも。

ぼうっと、そのままあてど無い視線を宙に残していた恵利子がハッとすると、すぐ側に
真紀絵の顔があった。透き通る、その瞳と、陽の匂いのする髪。
「マキさ……」
目の前が、お日様色に染まる。日時計の回る早さに、戸惑いも追いつかない。
「……巧には、ナイショね」
そっと、口付けられた。野の花が、風に触れられたような一瞬――

目の向こうには、相変わらず巧が草と戯れている。少し離れた場所の二人に起こった『異変』に、
気付くものは、誰もいない。
「――お待たせ、エリ。何か用? ……何だ、真紀絵のヤツ、いつの間に帰ったんだ」
巧が上がってきても、恵利子は凝然と遠くを見つめていた。いや、近くだったかもしれない。
とにかく、巧のことは、見ていなかった。
「……恵利子?」
巧がかがんでも、恵利子は喉を強ばらせていた。それを、深い息で、押し隠すように。
「別に……ただ、会いたかっただけ」
「かっわいいこと言ってくれるねぇ〜」
やっと絞り出された言葉の深刻さも理解し得ず、酔ってしまいそうになっている巧に、
その余地も与えぬように、恵利子が立ち上がった。
「……帰る」
「え? あ、おい……エリ!?」
服装に似合わぬ、ズカズカした足取りで、何もかも振り切ろうとするように、歩いてゆく。
……頭が、混乱していた。胸が、弾けるような痛みに、激しく痺れていた。何があったのか、
何を考えたら、どうしたら良いのか……何もかも。聞けないことなど、言えないことも、
何もなかったはずの二人の間に、変化が起こっていた。



「水色の花束 "Pain"」へ          NOVELSへ           TOPへ