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「やってくれよ英二、オレ忙しいんだよ」
突然、講義が終わるなり、“友人”の相田基(もとい)に捕まった。その口は目前の約束を
取り付け、体はもう別の場所へと急ごうとしている。見るからに「忙しそう」な奴だった。
「え……でも、俺もレポート三つ抱えて、これから……」
「オマエなら、出来る! 埋め合わせは必ずするからさ、な?」
とか言いつつ、今まで一度として“埋め合わせ”なんてものがあっただろうかと思う間もなく、
「じゃ、ヨロシク!」と調子の良い押しつけ方をされて、そのまま相手に去られてしまった。
結局、いつもこうなる。友人関係とは、ギブ・アンド・テイクの均衡が保たれない状態を
指すのかも知れない。自分がお人好しとは、分かっている。が、他人は更にもっと良く、
分かっている。
廊下で立ち尽くし、肩で溜息。英二はたった今、三本のレポートに直ちに取りかからねば
ならない身で、二十人へのインタビューを押しつけられてしまった。校内新聞関係らしく、
それも基が、更に誰かから調子よく引き受けたものらしい。そして、「よ、頼まれてたの
できたぜ」と渡すのは基である、ということも分かっている。いつも、オイシイところは
逃がさない、要領の良いヤツだ。
「仕方ない……さっさとやらんと、こっちがヤバい」
断れきれないそんな性分に生まれた自分を呪っても始まらない。自分の周りのオイシイ
ところは、すべて基が牛耳っているが、それもまぁ、「仕方がないよなぁ」と、溜息をつく
ばかり。溜息はついても、悪態はつかない。取りあえず歩き回って、できるだけ早く、
終わらせてしまおうと思った。

――暑い日だった。陽は、ギラギラと照りつけるのに、更に湿度が高く、ベットリとする。
じっとしているだけでも大粒の汗が流れ落ちるこんな日に、何故自分にとって一文の
得にもならないことをしているのか、我ながら気が知れない。大体、基はメンドウなことは
すべて他人に押しつけているから、「忙しい」と言っても、自分のやりたいことに忙しい
というに過ぎない。そしてそのメンドウのほとんどは、英二に振り替えられている。
今回のインタビューにしたって、英二なんかよりも付き合いがだだっ広い基の方が、
あっという間に二十人くらい集められるはずだった。英二は、十人くらいなら何とか
思い浮かぶが、彼ら全員をすぐに捕まえられるかといえば、それはまた別な問題だし、
どうしたって残りは、面識もないそこらの通行人に、ぶっつけで聞かなければならない。
考えただけで、溜息だ。

その後は丁度空き時間だったので、キャンパスを駆け巡り、何とか五、六人はすぐに集めた。
しかし、それで体力も人脈も限界。サテという時に、躊躇ばかりして、疲れがたまるだけ。
もう汗だくになっていて、手にしたノートも、汗でゆがんでいた。無理もない。この、茹(う)だる
ような熱気だから。この先どうすべーと思いつつ、もう疲れ切って、木陰の芝生の上に、
体を投げ出した。今日中に終えられず、明日に持ち越しなんてことになれば、不器用な
たちだから、手も付けられないままレポートが煮詰まってしまうだろう。けれど今は、
もう自分自身がビールのつまみの枝豆みたいに茹で上がっていて、何も考えたくなかった。
目を閉じて、異次元へトリップ。
――ここは、暑くなんかない。目に浮かぶのは、青い海。
去年の八月……基と、その彼女と三人で行った、あの海。独りあぶれ者の英二は、
静かな波と、潮風に耳を澄ませた。その、誘ったのだって、基だった。恋人と、何故
自分とを誘うのかは分からなかった。けれど、あの色。深い紺碧と、白い砂浜。
風にサラサラと流れた彼女の黒い髪と、灼(や)けた肌……

「――ぅわぁっ!」
いきなり、頬に冷たい感触が押しつけられ、英二はハネ起きた。ぶるっと身震いして
上半身を起こし、ハッと周囲を見回せば、焼け付くようにまぶしい光をバックに立つ女性。
「大丈夫? 芦名(あしな)君。暑そうね」
英二は、眼を細めた。次第に見えてくる、真夏の笑顔。ブルーのポロシャツに、オリーブ色の
ショートパンツ。うなじも涼しげなボブカットの彼女は、水もしたたる清涼飲料水の缶を片手に、
もう片手を膝につき、地面にひっくり返っていた彼を、のぞき込んでいた。
「どぉしたのー、すっごく汗かいて。ハイ、あげる」
水戸(みなと)葉月は、持っていたポカリを、彼に差し出した。
「あーっ……生き返る。冷えてるや、サンキュ、葉月」
乾いた体に、CMそのままに、潤いがもたらされる。
「びっくりしちゃった。ケヤキの下に、マグロがいるんだもの。――忙しそうね」
「あ、いや……」
何と言ったものか、自分でも首を傾げる彼に、葉月の言葉。
「また、基に押しつけられたでしょ、何か」
うふふと笑う口元が、あだっぽい。図星というのも、お見通し。
「だーめねぇ、芦名君、人が好すぎるよ。基みたいな自分勝手な奴の口車に、
 ホイホイ乗せられるようじゃ。未来が見えてるなー」
切れ長の目、整った眉。かがんだ彼女は、膝に頬杖をついて笑った。
キレイな指、キレイな爪。彼女、水戸葉月は周知の如く、相田基の恋人だった。
「ちぇーっ……人が良いってのは、美徳だろ?」
「ノンノン、負け惜しみよ」
鮮やかで、艶やかな笑み。ルージュを引いただけなのに、印象深い瞳が、人の目を
惹き付ける。したたかで、しなやか。大学では誰もが知っている“有名人”の基と、
指折りの美人のカップルは、ちょっと高く付きすぎないかと思えるほどに贅沢。
けれど、ひとの噂すら、水のようにするりと通り抜ける彼女には、束縛が感じられない。
「ところで、何を押しつけられたの? アゴで使われてる芦名君」
「ひっでーの。――アンケートみたいなもんなんだけど。二十人に、インタビュー」
「卒論用とかの? どーせ、飛び石要請でしょ。オマケに手柄はトンビに油揚げ」
そこまで読まれていると、それ以上話す気がそげる。
しかし、この“友人のカノジョ”との思わぬ出会いが、現状打破の契機となった。
「そうだ……葉月にも訊いて良いかな。今、人が捕まらなくて困っててさ。まだまだ人数
 足りなくて」
「良いよ。どんなインタビュー?」
葉月は芝生の上に座り込むと、膝を抱えた。その指には、基が贈ったと思われる、彼女の
誕生石のペリドットのリング。それが何となく、目に留まった。
「『恋愛』について。――二つ、恋愛を選ぶとしたら、どんなのがしたいか、って」
「何処の誰? そんなこと追求する物好きは」
「新聞会がやってるらしい。他の人の答え、見る? 参考に」
「いいわ。……新聞、ね。大方、マユミちゃんにでも頼まれたんでしょ。ほんっと、
 ええがっこしいなんだから、あの男。そうやって、あちこちの女の子のポイント稼ぎに
 怠(おこた)りないから、年中忙しいって言ってんのよ」
流石に彼女は、彼氏のことを分かっているなぁと、英二は感心したが、彼女の楽しそうな
口調が、不思議だった。他にも浮き名を流す基に、こういう、人間のできた女性がくっつくのも、
天の采配というものかと、思わず考え込んでしまう。
「そーんなこと聞いて、どうするんだろうね」
「今の学生がどんな恋愛を望んでいるか、傾向を知りたいんでないの」
「知って、どうするの。後学のため? 参考に? ……可笑しいわね。恋なんて、
 考えるまでもない、簡単なことなのに」
また彼女は、ふふっと笑った。
「簡単? そうかな」
「はしたなくなるのに、こだわりなくせばね」
「……なるほど」
非常に納得させられて、ポカリの缶が芝生に転ぶ。
「そうね……」
不意に、きゅっと膝を抱え、葉月は視線を横に滑らせた。――風が、凪いだ。
さっきまでの熱気が、昼をピークに下り坂。かなり過ごしやすくなってきた。
「――始まりのない恋と、終わりのない恋。……私が選ぶのは、その二つでしょう」

英二は、しばし言葉を発することができなかった。
葉月は彼の方を向くと、ニッコリと笑った。それでも数秒は反応できず、その後にハッとして、
ノートに書き留めた。そして、その書いたものを読み、再び、しばしの沈黙。それから、彼女と
視線がランデヴー。わずかの間……それが動かなかった。と、唐突にドキドキが始まり、
慌てて英二は目を逸らした。
「そっか、ふーん……意外だった。始めと終わりがハッキリしないのは、嫌なタイプかと
 思ってたよ」
「そう?」
笑顔に重なるのは、まぶしいほどの青い海と、心洗う潮風。何人もの答えを聞いた後での、
突然の出会い。きっと、その瞬間から彼は、彼女に惹かれていた。



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