「さよならダーリン 7」へ          NOVELSへ           TOPへ






「よぉ永岡っ、注意力散漫だな」
フライング・ディスクで一汗。やっとハーフで交代して芝生に腰を下ろすと、隣の男が
話しかけてきた。その素行、夜のエンゲル係数高し等の評判から、本名の下峰太郎を
もじって“シモネタロウ”という、およそ聞こえ宜しくない異名を持つ。
「涙ちょちょ切れの清らかな純愛の弊害で、『運動不足』なんじゃねぇの」
「お陰様で」
今は藤乃が、枯れかけた芝生の上を駆け回っている。
「うーん、山ねずみのようで、確かに可愛いがねぇ。やっぱり『お子様』だな。
 おまえ、ロリータか?」
これだけ全校レベルで「ふられ男」の烙印を押されているのも、今更知ったこっちゃない
のだが、やはり情けないものがある。
「……見つめるだけなら、ロリータでも害はないだろ」
「うっ、ビョーキくせぇ。だから据え膳食わねぇのか?」
は? と横を向くと、シモネタロウはかがんだ体勢で、卑俗な笑みを浮かべてみせる。
「水瀬のことだよ。おまえ、随分入れ込まれてるのに、つれなくしてるんだって?」
「あいつは……何処までホンキか分からんし」
『ホンキ』 『本気』 『本当』――『真実』?
心の中で乱反射する、不可解なキィ・ワード。誰かの時計の文字盤が、信号(シグナル)のように
キラリと光り、目に翻る。
「勿体ねーな。あの崎谷が、選り取り見取りの『身の下』で、なおかつ水瀬に執着してるにはよ、
 何か、何っ……か、オイシーもんがあるからだと思わねーか?」
一事が万事、そんな具合に世の中のことを考えていたら、脳が腐りそうだと思った。
「お、出番だ」と立ち上がるシモネタロウに、「さっさと行ってしまえ」と心で呟き、
達郎は見向きもしなかった。そして、吐き捨てるように、
「――下世話なんだよ、シモネタロウ」
溜息をつき、額を押さえたところで……ハッとする。今の、自分の言葉。何と、自分が口に
するに、ふさわしくない言葉であったのか。いや、一体いつから他人のことを……「下世話」
などと、見下すような口をきける身分になっていたのだろう。忘れていたが、少なくとも
小・中・高校と過ごしてきて、その間は月並みに、彼も「シモネタロウ」であったはず。
大学に入ってからも、「禁欲」などという単語の存在を意識することは……

――藤乃に会ってからだ。

藤乃と会って、しばらくして、恋人がいると知っても好きだと感じることに変わりはなかった。
他の女の尻を追い回す気もなくなり、汚(けが)れない藤乃の周囲すべてに目を光らせ、
彼女にふさわしくないものは寄せ付けない、とでもいうように。――誰よりも、「自分」が、
『ふさわしくない存在』となることを畏れるが故に、自分を監視し、他を監視し、不自然な
までのストイシズムで、藤乃に接してきた。

「たーっちゃん、どしたの?」
不意に背を叩かれて、丁度汗も引いて風も凍みる頃になっていた達郎は、一瞬、
全身の血の気が引いた。一方、そちらはまだ湯気を立っている藤乃。汗の玉が、今にも
鼻の頭から滑り落ちそうだった。
「久しぶりに走ったー。今日はもう、バタンキュッ!」
はーっと息をつき、芝生にひっくり返ると、彼女は顔にタオルを落とした。息づく生気、
脈打ち四肢に満ちわたる血潮。その熱いイメージが、達郎の体内をも満たす。
藤乃は後ろ手をついて起きあがると、
「考え事? 別に良いけど、ディスクが飛んでくると、危ないよ?」
何だか、それを直視することも疚しさに咎められ、彼は落ち着かなくなった。
――見つめるだけなら。……それならば、何故求めるのだろう。
自己矛盾・不安定な精神・曖昧な概念……モラル? 
不格好にゆがめられ、覆い隠され、自我にすらその存在を拒否された『欲望』。
膝に頭を埋没させてしまった達郎に、藤乃はキョトンとする。そしてまた、ぐっと顔を上げた
彼に、びっくり。彼は、エラく真剣な表情、悲愴にすら見える様子で、じっと見つめる。
もう……夕暮れ。試合終了(ゲーム・セット)は近い。おもむろに立ち上がり、
「俺、もう帰るわ」


達郎は、クラブハウスでシャワーを浴びながら、何か、体の表面にこびりついた汚れを
こそげ取るように、ぎっ、ぎっとこすった。外気に晒され、しみついた世俗の垢を、
肉共々削り落とすように。だがやがて、荒い漆喰の壁に、その拳を押しつけた。
そんなことでは、何も変わらない、変えられないと、初めから分かっていたことを、
忘れられずに。

 “汝、姦淫するなかれ”

「――血の額のパリサイ人……か」
のぼせた頭を冷やそうと、敷地内の林を、ぶらぶら歩いた。
心の中で犯される罪すら畏れ、『女』を見ないようにと俯いたまま歩き、木にぶつかり、
その額を血に染めたという律法学者(パリサイ人)。そのナンセンスが、今の彼には
少しも笑えない。むしろ、ひどく恐ろしかった。静かに高まる、不安と苛立ち。
何故、こんな不様な思いを、胸の内に広げていくのか。
そうしなければならなくなったのは……

「何で俺に見せるんだ……!」
木肌に叩きつけられた拳が、少し切れた。だが今は、そんな痛みも気を紛らわせない。
……欺瞞と、偽善。目を逸らしたい、すべての罪悪。結女の瞳に見つめられると、
水のような透明感に戸惑った。自分までもが透き通って、心の中まで晒されるようで。
「見られる」こと以上に怖かったのは、「見てしまう」こと。自分の眼で、自分を。
結女は何も言わない、求めない。しかし彼自身が、その抗いも虚しく、「見て」しまう。
もし彼女が、それに気付いているのであれば……

再び彼は、拳を振るった。身から出たサビ以外の何物でもない、だがその事実を
気付かせた存在として、結女が許せなかった。もし彼女が、彼の愚かな所業に
気付き、その上で赦(ゆる)していたとしても。
知りたくない、見たくもない、気付かれたくない。……すべてを封じ込めてしまいたい。
どんな罪をも赦し、何をも縛らないであろう結女。つけ込まれるハズだった隙が、
ガランと空いたまま。その存在が、否定したいものが、どんどん「自分」を浸食する。
もう、やめてくれと叫びたくなっても、止められるのは「自分」だけであるのに。
内側から火照る熱と、体を冷ます風の冷気で、思考が、ぼうっと霞む。
ふらりと林から出たところで、立ち尽くした。ぼやけた月よりも、水銀灯が眼に痛い。
……何も、見たくない、聞きたくない、考えたくはない。今はただ、思考の真っ白な
闇に漂うことを、何よりも願うのに。

「――あ、たつだ! 何してるのー」
イレギュラーな時間に講義が終わったらしい。電信柱のような櫂に、季節外れの
セミのような結女がくっついて、本館の方から、真っ直ぐ歩いてきた。薄暗い中にも、
結女の髪に揺れる黄色いリボンが、はっきりと浮き上がる。二人共一瞬、陰鬱な眼を
ゆっくりと上げた、達郎の異様な様子に眉をひそめたが、結女はそれをぬぐい去るような
笑みで、
「……たつ、元気ないの? 大丈夫?」
そっと背伸びして手を伸ばそうとするのを、ドンッと突き放され、よろめく結女。
「……俺に、構うな」
支えられた櫂の腕にしがみついたまま、結女は大きな目を、更に見開いた。
余りに無防備なそのすべてが、手の付けられない攻撃本能を駆り立てる。
「もう、俺に付きまとうな。俺は……迷惑なんだよ、おまえみたいな節操なしと同類の目で
 見られんのは!」
ぎゅっと、結女の手が握られる。何故そんなことを言ったのかは、よく分からない。
ただ、傷つけてみたかったのかもしれない。あまりに自由で、自分を悲しませるすべてからも
自由に見えた結女が……妬(ねた)ましくて。



「――がっ!」

ブラック・アウト。

数秒間、意識が吹っ飛び、気付くと体も吹っ飛んで、講堂入り口の階段に、ぶち当たった。
直後に、全身に激痛。
「櫂、やめて!」
結女の声を聞くと同時に、蹴りが入った。
「どいてろ! こいつ……おまえを侮辱したんだぞ!?」
どうやら櫂に、思いっきし殴られたらしいと分かる。普段、滅多と声を荒立てない彼が、
無茶苦茶ホンキで怒っていた。
「良いよ! あたし何とも思ってないんだからぁ、」
「それで済むか!」
「だって本当のことじゃない、あたし、節操なんて無いもん、だから良いの!」
「言って悪いことと良いことの分別くらい、持つもんだ、いくら事実がどうあろうとな!」
「それでも良いの、もう良いっ、お願いだから……!」
ふわり、と達郎を包む香り。小さな体いっぱいに、彼を抱き締めてかばう結女には
かなわないのか、櫂は、ぎりっと拳を握りしめたまま収めた。
「……勝手にしろ」
冷たい風が、結女の温もりとあいまって、丁度心地よい。
達郎は、このまま溶けていってしまいたいと思った。



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