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「どうして……こんな、手まで怪我しちゃったの?」
結女は、ひとりで達郎を下宿まで引きずってきて、休む間もなく薬局に走り、今は彼の
右手の傷を、丁寧に消毒。即席氷のうのおかげで、もう頬の痛みは、大方消えていた。
「痛い? ……ごめんね、ちょっとだけ我慢して」
彼女はガーゼを固定した後も、その手をそっと包み、少しでも早い治癒を祈るかのように
口付ける。そんなに心配されるほどの傷でもないのに、達郎は心苦しかった。
しかも、あの罵詈雑言の後。
左利きの櫂が右手で殴ったということは、如何にブチ切れていたとはいえ、
とっさの手加減はしたらしい。「頭冷やせ」という程度の、叱責だったのだろう。
――座ったまま視線を落としていた達郎が目を上げると、ひたむきに見つめる結女の瞳が、
潤んでいた。そっと、恐れるように、痛くないようにと、震えながら伸びた指が、氷のうに触れる。
刺すような冷たさを感じてか、眉がひそまった。悪戯がバレたのに叱ってもらえない子供の
ような、むず痒い気持ちが、達郎の中に広がる。こんな扱いをしてもらえるようなことは、
何一つしていないはずなのに。
「ごめんね、櫂は……ちょっと勘違いしただけなの。私のせいで。――だから櫂を、
 悪く思わないでね?」
「……どうして怒らないんだよ」
痺れを切らせたように、懇願とすら取れる、苦し紛れの声に、結女はハッと手を引いた。
氷のうが、彼の手から、ポトリと落ちる。
「何で、俺を……」
庇うのは、何故。いたわるのは。……いつも、理由が分からなかった。納得できなかった。
もう、正当化できないような自分であれば、あとは壊されてしまいたいのに。
「たつが、フツウの時……そしてもし、あたしがダウンしそうなくらいLOW(ウツ)な時だったら。
 ……分かんないけどね、あたし……少しくらい、怒ってたかもしれない」
達郎が目を上げると、結女はムクれた子供のように、まるで“自分に叱られたよう”に、
泣き虫な笑みが呟く。
「でもさっきは、ちっとも怒る気なかった。ホントだよ、そんな、『言葉』なんて、どうでも良かった」

――……違う? 達郎は、何か異質なものを、感じ始めていた。
これは、同情や、理解、いたわり……そんな、洗練された分かり良い理屈の現象ではない。
砂時計の砂が、一粒ずつ降るように、結女という現象の一かけが、手の中にこぼれ落ちて
くるような、その感覚。
「あの時、たつは、痛そうだった。本当に……辛そうで」
――言葉から、最も遠い存在。生じたままの、生粋の感情。まだ何という色にも染まらず、
理屈よりも早く強く、心を突き動かす深い意志。
「……あたしも痛くなった。一体、どうしたら良いのか分からないくらい……痛くて、
 苦しくて、どうしようもなかった」
結女は、静かに首を振った。
「あの時は、たつの方が苦しかったから、だから、あたしが怒る理由なんて、
 何も感じなかったんだと思う。……多分」
彼の右手を、そっと両手で包み、頬を寄せる。
「……まだ痛い? まだ苦しい……?」
あの時点で彼を支配していた感情など、とうに消え失せ、痛みすら忘れていた。
それだけが心配事のように、結女はその手に口付ける。その加護のすべてを、彼に与えよう
とする程の思いで。それを表すのに、どんな言葉が当てはまるのか、そんなことを考える
知恵も奸智もない、純粋な愚かさのままに、その愛おしむ心だけが肌を通して伝えられる様は、
あくまで無防備だった。

その時。初めて……ストン、と幕が一つ落ちた。
結女が、今まですべてのものに与えた自由と、彼女が享受してきた自由とを持っていたのは、
すべてを赦し、受け入れてきたからではない。……やっと、気付いた。

――彼女は、「赦す」もなにも……「知らない」のだ。

その瞬間、達郎は、全身が総崩れになりそうな脱力感に襲われた。
この世のすべてを、自分が造り上げた価値観という基準で計り、受け入れ、または排除する。
そんな一般的な観念が、結女には欠如している。
――冗談じゃない、これはもう、「無邪気」などという、生やさしい段階の話ではなかった。
呆れ返って、両手を投げ出して、「降参!」と叫んでしまいそうだった。
何ということだろう。しかし……ここまできても、これまで以上の、我が儘と甘え。
今の彼は、言葉でない思いを言葉に選ぶことを、少し忘れたかった。
だから、何よりも先に彼女に言うべき言葉も、心の中だけに。
追いも、逃げもしなかった距離が、吐息一つの「間」に変わる。

ふ……と、結女は彼の胸に、耳を押し当てた。
「……以前(まえ)と違うね、たつ」
「俺、オボえてないわ」
クスッと笑う結女。
「――思い出そうか」
彼が持ち出す、ふざけた提案。それに続くのは、「思い出せないフリ」に決まってる。
だから結女は、うなずかなかった。
「……怖いよ」
彼女が呟く。何が、と尋ねても、溜息の他に応えはない。そして彼女は、繰り返す。
「愛してるよ、たつ」
……と、やはり変わらぬ言葉で。けれど、もう決して「同じ」にはなれない気持ちで。

ずっとその指を待っていたはずのリボン。それが解(ほど)かれる時も、するっと降りた
巻き毛と同時に、何かが変わっていた。……もう、「それ以上」はないという、哀しい
嬉しさの中で、まだ誰にも命じられてはいない離別に怯える、臆病な無邪気姫――

“Good-bye, darling..."

聞こえなくてもいい。
伝えるあてもない囁きが、走り書きの思いのように、心に綴られた。










引用・『サロメと名言集』(新声社)1989年より
著者=オスカー・ワイルド/訳編者=川崎淳之介・荒井良雄


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