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《肉体の罪など何でもない。精神の罪のみが恥ずべきものである》 ――獄中記


――……しまった。

昼近くに目覚めた達郎は、心身ゲロゲロな二日酔い。ぼさーっとした頭のまま洗面台に立ち
顔を洗うまでは、まだ脳は寝ていた。しかし、ハッと鏡の中の自分を見つめた途端、何か……
背後から影がジワリと迫り、いわれようのない悪寒が、背筋をなで上げた。目を閉じても、
ぐっ……と瞼を、思考を押さえつける手をも突き抜け、まだ見える「影」。

“鍵ハ 郵便受ケノ中ニ 入レトクヨ”

ゆさゆさと揺すぶられて、その声にうなずいた、朧気な記憶。その遠い声が、誰のもので
あるかをハッキリ認識した瞬間――沈黙が絶叫した。


まだ体調万全とはいかないが、どうしても大学に用事がある。そんな彼が、何も考えない
ように歩いていると、何も考えない彼の視界に、ケヤキの下の芝生に座っている櫂と、
その背にじゃれている結女が入ってきた。……いつ見ても、奇っ怪な情景だ。
恋人のようで、親友のようで、兄妹のようで、親子のようで。そして、それらのどのようでもない、
そんな二人。達郎が入学して崎谷櫂と知り合って以来、彼が学内外関係なく、色々な女性と
いるところを見てきたが、少なくとも櫂は、どんな女性に対しても優しかった。しかし、入学以来、
一貫して変わらずに彼と共にいるのは、結女だけだった。それは、櫂が結女に対してだけは
特別な「優しさ」を持っているからなのか、それとも結女だけが櫂の「優しさ」に対して寛容
であるからなのか。そんな理屈を、どんなに並べたところで、目の前の二人の存在を理解
するのに、何の役にも立たない。それ以上、考えさせられるのも嫌で、達郎はそのまま
通り過ぎようとした。
「おい、永岡!」
ズキズキする頭が瓦解しないよう、そろりそろり歩いていた達郎は、脳天に杭を打ち込まれた。
わずかな時間も、周囲は動きを止めず、突然路上で立ち止まった彼の肩に通行人が
ぶつかり、ぐっと上体がのけぞる。真っ青な空に、彼の思考は、吸い込まれそうになった。
できれば通り過ぎたかったが、そうもいかない。
「……昨日はお疲れさん」
一応、何てことない挨拶を交わすが、今ひとつ、冴えない。チラと結女を、目の端で
盗むように見るが、そこにあるのは、普段と少しも変わらぬ、くりくり頭の、子犬のような
大きな瞳が濡れたように光る笑み。もう、一番強い日差しは傾いて、次第に風も出てきた。
「講読の当番、俺っていつだった?」
日常の中の『日常』。『昨日』とは違う、しかし全く同じにも見える『今日』。達郎にとっての
『今日』と、全く同じはずの、他の人間にとっての『今日』。
「おまえ、舞台あるからって、最後の日にしてもらっただろ。忘れたのか?」
「まだ教材(テキスト)も買ってねーよ。新宿まで行かんと」
「おい崎谷、原書(フランス語)だぞ? 覚えてるか?」
老婆心で一瞬心配するが、本人が気にしないものを、他人の達郎が気に掛けても仕方が
ないと、すぐに溜息。
「あたし買ってきてあげよっか、櫂。これから四谷で約束だもん。途中下車するだけだからさ」
「なにーっ、連チャンで朝帰りする気か不良娘」
「『昼帰り』しまーす。前からの約束なの。ね、もう行く。お遣いしたげる」
「いらん。さっさと行ってしまえ」
ふふっと笑って、結女は一度、ぎゅっと櫂の首筋に抱きついてから立ち上がった。
「じゃあね」と去ろうとする彼女の腕を、それまで無言だった達郎は、数歩のところで
ぐいと掴んだ。振り返った瞳に映ったのは、戸惑いを超えた、憤りだったかもしれない。
「おまえ……どうして、そんななんだよ……!」
抑え付けた声で。昨日も、同じようなことを訊いた。その時は、楽になりたくて。
今は、それをそのままにしたおきたくはなくて。
「どうして……って、何が?」
『何』なのだろう。彼自身は、何を期待して……いや、恐れていたのか。その瞬間、
カァーッと熱いものが、頭に昇る。
「……不思議? でも、教えてあげない。分かったら、たつ……私のこと、
 好きになっちゃうかもしれないからね」
また、ふふっと笑って、結女は背を向けた。緩やかなステップに、残像のように揺れる
シルエット。一秒の次の、また一秒。重ね合い、追いかけ合う影。
一瞬でも、恐ろしく貧困な発想が思考を駆け巡った事実が、彼を硬直させた。
くだらない妄想、情けない弁明。誰に請われるわけもなかったものを、ただ独り、
こねくり回していた自分に気付いた。それも……あの、「無邪気」を超越した結女の
瞳の中に、自分で見付けてしまった。
「おまえ、何に迷ってるんだ? 永岡」
背後からの声に、ビクッとする。振り向けば、櫂は煙草に火を点けているところだった。
「自分のやったことの正当化ばかり考えているなぁ」
ふーっと煙を吐く櫂は、達郎のことは見ない。
「どうもおまえを見てると、『道徳』だの『倫理』っつう、コトバだけに翻弄されてる感があるね。
 ワイルドも書いてるよ。“道徳とは、私たちが個人的に嫌う人間に対して取る態度にすぎない”
 ……とね。――自分をその『モラル』の中に押し込めておくには、結女が邪魔か」
その言葉に、達郎は自分の持っていた「不安」の実態を、まざまざと見せつけられた気がして、
うろたえた。
「おまえ……いつからそんな『清らか』になったんだ?」
呆れるほどの愛想も尽きたのか、櫂はハッと嗤った。

――何故、藤乃でなければならなくて、何故、結女ではダメなのだろう。
結女を嫌悪したことはない。理解外の存在と決め付けてきただけだった。
では逆に、何故こんなにも藤乃に固執するのか。必要? 独占?

“快楽って、いけないことなの?”

「恋愛」について、仲間内で戯れに議論していた時、そんな結女の言葉が飛び出した
ことがあった。

“私、快楽って、神サマがくれた『シアワセ』だから、いけないことなんかじゃないって思う”

……あの、透明な無邪気。誰の干渉にも服さず、しかし他と己の間に境界は引かず。
時として、藤乃をも遥かに凌駕するイノセンスを強烈に感じさせる結女の、藤乃との違いは
一体なんだろう。処女性(ヴァージニティ)? それとも単に、自分以外の男の匂いを感じるのが
嫌だという、幼稚な独占欲の局面と思えなくもない。好意を寄せることと、独占欲が同居しない
結女、そして櫂。達郎は、自分自身が「独占されたい」、という願望の断片を見付け、
ますますもって幼稚な発想に、考えるのも嫌気がさしてきた。
「非常識」と決めつけてきた櫂や結女のことを、改めて考えてみると、出会いや別れの際、
見苦しいほどに大騒ぎをする周囲の人間達に比べ、あの不思議なまでの穏やかさで
暮らしている彼らの、何と平穏なことか。その印象を思うと、もしかして「フツウ」でないのは、
自分達の方ではないかとすら、感じられなくもない。だがそんなことは、チラと考える
ことはできても、素直に認められるものではなかった。しかし、櫂の言葉が、脳の奥から
響いてくる。必死にあがいている「自分」を感じる。他の価値観からの浸食を受けようと
している、自分という存在への不安感が、ぼんやり漂うように広がってきている。
それも、招かれも誘われもしていないのに、自分から歩み寄っている。
――櫂が言った、「大切なもの」とは何だろう。そして、訳も分からずとめどない不安、
疑問が、圧迫するように押し寄せる。それも好んでのことでは当然なく、苛立ちが募った。



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