「さよならダーリン 5」へ          NOVELSへ           TOPへ






突然、ゾーッという悪寒が全身に走り、血圧の下がった重みに圧迫され、達郎は一気に
酔いが回る。
「だったら……」
目の前がクラッとして、肘をついて支えていた手から、アゴが滑り落ちそうになった。
「……だったら何で、あいつは俺に……好きになったりしてくれるな、なんて言うんだ」
「今のおまえが好きだからだろ」
あっさり、単純に言われてしまって、却って混乱。それを分かってか、櫂は補足して、
「おまえに好きになってもらおうとするってのは、つまり、今のおまえを変えることだからな。
 ゆんは、人を『変える』ってことの次第の重大さも、それに伴う危険も、知ってるのさ。
 それに、あいつは……」
そこで櫂は、ふっと微笑して、一杯あおった。
「とても臆病というか、ひどく少女的な気の弱さがあるから、もし、相手も自分を好きに
 なってくれれば、まあ初めは嬉しいだろうさ。だが今度は、それが多くなったり
 少なくなったりすることに怯える毎日……いわば、別離(わかれ)の時までのカウントダウン
 が始まる。あいつは、それに耐えられない。だからゆんは、自分の責任において、
 おまえを一番好きでいられる時が、一番幸せなんだ。おまえの気持ちは、関係ない」
……それって、えらく身勝手な発想ではないかと思ったが、櫂にしてみれば、
結女のそういう辺りが、「可愛い」のかもしれない。そして、ハタと考え込む頭。
――手の届かない藤乃に「好きだ」と言い続ける自分は、結女と大差ない奴ではないか。
その行為に、いったい何の価値を見いだす?
ポン、と達郎の肩を叩き、櫂はお呼びがかかり、席を立った。達郎は、ふと目を上げると、
座敷を降りる藤乃の姿を見付けた。彼は、何を思うより早く立ち上がり、店の外に出る
階段のところで、彼女の腕を捕まえる。
「あぁ、たっちゃん」
振り向いた藤乃の笑みが、酔いの回った目ににじむ。
「帰るのか? 駅まで、送ろうか?」
「有り難う。でも良いの、桐島君が車で迎えに来てくれるから」
「……そっか。じゃ」
その間、視覚的な行間では到底表現し得ぬ程の「間」が、両者の心情の間隙として
横たわった。「おやすみ」と、惜しげない笑みを降り注いでくれる一方、達郎の心に、
日本海の荒波(冬期)をぶちまけていった藤乃。
「『桐島君』……か」
不意に、夜風が目に染みる。達郎は手すりに凭(もた)れ、もう振り向かない藤乃の背を
見送った。彼女に対する憤りなど、かけらも存在しない。あるのは、ただ、荒涼たる
原野にも似た寂寥と、虚無。存在しないはずの、存在感。
直接会ったこともない男のことを、『言葉』だけでなら、よく知っている。
専門学校を卒業して、現在は社会人。ドライブが趣味で、アメ車にぶっちぎられると、
頭もキレる。そのくせ、お人形さんのように綺麗な顔をしていて――

手すりに頭を付けていると、そっと背が抱かれた。確かめるまでもない。……結女だ。
ブラック・アウトしていたのが一瞬か、それとも数十分だったのかも分からず、
彼はしばらく顔を上げなかった。
完ペキに体がイッてる。酔いなのか、気力ダウンの現実逃避か、それも分からなかった。
「……具合、悪いの?」
心配声の結女は、不安を包み込むように、彼の背に頬を寄せる。その微かな温もりが、
遥か、懐かしい。
「……ヘーキっ」
彼が、ぐっと体を起こすと、少女の面立ちでいて、何処となく「女」を匂わす結女の、
見慣れた貌(かお)。無防備な唇。深い色の瞳。見つめなければ何ということはなく、
見つめれば不思議に強く惹き付けられる眼差し。今まで達郎は、彼女を「見る」ことは、
なかった。
抱き寄せられ、結女はよろめいた。彼女は、ただ寒かっただけかもしれない彼の、
心の軋(きし)みに耳を澄ますよう、そっと目を閉じた。
「愛してるよ、たつ」
特にいつもより深い感慨もない、静かな言葉。達郎は溜息をついて、正面のビルの、
殺風景な壁を見つめた。
「……何でだよ」
その声が、少し苦しい。やるせない痛みが、声を出すことも知らない不幸な夢が、
押し潰されていた。
「何で……俺なんだよ……」
ぎゅっと、結女の背を抱き締める。柔らかな巻き毛が、頬をくすぐる。それは、全く反対の
言葉と、きっと同じ。何故……自分ではないのか。
「俺は……藤乃が好きなんだぞ?」
「ふじ? ……あたしも大好き。ふじのことを好きな、たつも。だから……みんな、
 そのままでいて。みんなが、そうありたいようにいてくれたら、私はそれで良いの」
「そのまま」で。……それ以上、安心させてくれる優しさが、一体何処にあるだろう。
すべてを包み込むように受け入れる心が。大人になりたくないのなら、子供のまま。
子供でいたくなければ、大人に。思うように変わっていくのなら、それで良いと。
……溜息がこぼれるようだった。
「何でだよ、何でおまえ、そうなんだ」
そのままで、思うように。そこまで屈託なく、感情が、『言葉』という枷(かせ)に囚われることなく、
自由でいられるのか。本当に、心から聞きたかった。結女の言葉が。
「たつ、私は……きっと、苦しいことが嫌いだから。嬉しいから……今は充分」
我が儘なのか、労りなのか。それすらも、結女にとっては、どうでも良いことなのだろう。
自分の自由な想いを、妨げられることがなければ。自分を縛らぬよう、相手を縛らぬよう、
相手にも苦しくないように。
あぁ……きっと楽だろう。達郎は、心に呟いた。そして、その穏やかな気持ちを、少しで良い……
――「分かった」わけではない。けれど彼は、初めて結女のことを、「分かりたい」と思った。



「さよならダーリン 5」へ          NOVELSへ           TOPへ