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《この世は一つの舞台だ。しかし、配役が間違っている》 ――アーサー・サヴィル卿の犯罪


秋も深まり、髪を洗う風が冷水のように凪ぎ始めた頃、崎谷櫂の参加する学内劇団の、
一夜の興行が催された。
舞台に、セットらしいものは何一つない。ただ幾つかの椅子や箱が、無定型な空間のために
備えられていた。その一つ、中央に置かれた木製の丸椅子に、普段着と変わらない、
黒のパンツにリネンのシャツを無造作に引っかけた櫂が、長く束ねた髪を前に垂らし、
組んだ脚に片肘をついて座っている。
芝居は、ある英国紳士作家の幻想の中で繰り広げられる、彼の作品の登場人物達による、
愛や倫理、道徳といった既成概念の主観性に関する嘆きや、微妙な揺らめき、すれ違いや
対立等の絡み合いが、男女それぞれの幕に分けて、まとめられていた。
『人間を、善人と悪人に分けるなんて、馬鹿げている。人間は魅力的か退屈かの、どちらかだ』
“快楽主義者”は、舞台の右端で気取った口をきく。中央に位置する櫂は、まるでオブジェの
ように、様々な思惑に翻弄される男達の姿を、傍観していた。
『悪い女は迷惑で、良い女は退屈だ。――違いはそれだけだ』
彼の言葉に、突然照明を受けた小柄な男が立ち上がる。
『やれやれ! 結婚とは、男を何と堕落させるものなのだ。結婚は煙草と同じくらい
 人間を堕落させ、しかもずっと高くつく!』
哀れな男の悲愴な嘆きにもかかわらず、観客には笑いがこぼれる。
そこで初めて櫂が立ち上がり、観衆に語りかけた。
『私たちが自分の手によって、あるいは他人の手によって傷ついた時にこそ、
 愛が救いに来るべきだ。そうでなければ、愛は一体、何のためにあるというのだ?』
長身と、シャープな顔立ちが、舞台の上で水際立って映え、観客席からは、黄色い声援が
わき上がった。

「――打ち上げじゃあ〜、飲んだるぜぇ!」
怒声に近いかけ声が、火照った体を夜風にさらすどころか、更にジャングル地帯と化した、
公演終了直後の楽屋にひしめく。そこになだれ込んだ達郎は、「あぢーっ……」と、シャツの
ボタンを外した。やがて櫂が、貰った百合の花束を潰さぬように上に掲げ、「お疲れ!」と
次々に声を交わす人波にもまれるように、押し出されてきた。
「櫂、かっこ良かったよー。成功おめでとう!」
まず、藤乃が祝福の言葉を述べると、興奮気味に足踏みする結女が飛びつくように、
「櫂、カッコ良い! すっ……ごい、良い男だった!」
まだ息が早く、上気した肌の櫂は、クスッと笑って、花束を結女に渡す。その時の、
すっと流れた汗の玉一つにも、同性の達郎の眼にすら、ぞっと背筋をなで上げるような、
壮絶な色気が走る。
「……ゆん、何か付いてる」
不意に目元を指されて、結女は反射的に、「え?」と目をつむる。と、そのスキに、
櫂が唇に口付けたので、見ていた達郎は、ゲッとなる。結女も眼をぱちくりさせて、
「あーっ、騙したな、櫂!」
「――打ち上げだ、さ、行こ」
やってんなーと仲間がはやし立てる中、櫂は笑いながら結女を抱き上げた。
「誤魔化しぃー、ずるいぞ!」
抗議しながらも、結女はあふれる笑みで彼に抱きつく。
「ゆんって、ホント可愛いよね」
ほのぼのして言う藤乃だが、達郎にしてみれば全然ほのぼのじゃねぇ、のであって、
藤乃の方がダンチ可愛いので、うなずくことはなかった。

「……何ボケてんだよ。飲むなら正気で飲め」
集団から外れて、座敷の隅でボンヤリ燗をナメていた達郎の元に、もう随分飲んだであろう
くせに、ちっとも顔に出ない櫂がやってきて座った。彼は、自分も猪口をひっくり返すと、
燗冷ましを注いだ。
「酔った勢いで口説くぐらいの景気づけはないのか?」
「……もうインパクトねぇよ」
そんなの今まで、なんべんもやっている。
「で、『私は桐島君が好きなの』、か」
ふん、と笑う櫂に、「るっせぇー」と渋面の達郎。
「おまえの舞台、俺にゃちぃーっとも分かんねかったぞ。理屈ばっかコネてよぉ、
 中身があんのかねーのか」
「そうか? 結構、考え込まされた、ってのがホンネじゃないのかね。――しっかし、
 おまえも分からない奴だな。粘ってんのか諦めてんのか、中途半端なんだよ」
言われて気持ちの良い言葉ではなかったらしく、達郎は顔を上げない。
「……俺にしてみりゃ、おめーらの方が、よっぽど不可解星人だよ」
「『おめーら』ってことは、ゆんと一緒か。ふーん……あいつ、実に分かりやすい性格だけどな。
 思ったことは一つ残らず口にして、隠し事はできない。自分から腹の中、ぶちまけながら
 生きてるようなタイプだ。可愛いもんだよ」
しかし、「すべて」を見せられたからといって、「すべて」が分かるとは限らない。むしろ、
その「すべて」の信憑性を疑って、何一つ分からなくなる。そんな彼の心を見透かしてか、
「考え過ぎなんだよ、オマエ。すなお〜に受け取れば良いんだって。ゆんの『言葉』も、
 結局はそれ以上も以下もない、ただそれだけの『言葉』でしかないんだからよ。
 ……もしかしておまえ、ゆんが俺のところに居候してるってだけで、あいつの言うこと、
 信じられないのか?」
「それ以前の問題だよ。……あんな軽く、顔見るたびに『愛してる』とか言われても、
 額面通りに受け取れる方が、どうかしてる」
「――おまえ……永岡、それは了見違いだぞ」
それまでテキトーに喋っていた櫂の声が、心なしか一瞬引き締まり、達郎は眼を上げた。
櫂は涼しげに整った目元から放たれる眼差しを、ピンボケの達郎に向けて、
「おまえは、自分の内(なか)の概念でしか、『言葉』を理解しちゃいない。それじゃー
 余りに世界が狭いだろ。『誰か』と『自分』という、二つ以上の価値象限にまたがって
 生きる限り、自分独りを基準に見てたら……いつか、大切なものを見失っても、
 それに気付かないぜ。自分の価値を護ることは、悪じゃないさ。ただ、人間、
 独りで生きちゃいないんだ。手遅れになる前に、藤乃を見るのと同じ目で、
 結女を見てみろよ」
「……そいつぁームリだ」
達郎は苦笑した。藤乃は藤乃。結女は結女。同じように見れるはずなどない、と。
しかし……何か、引っかかった。あの、彼が日々の挨拶程度の重みしか見いだして
いなかった、「愛してるよー」という言葉が、もし……もし、その一つひとつが、結女にとって
それだけ真実のものであったとしたら。



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