「さよならダーリン 3」へ          NOVELSへ           TOPへ






「――眠いよ櫂〜、おんぶしてって」
「俺はナベ背負って帰るんだよ」
「じゃあ、あたしがナベ背負うから、私をおんぶして」
「おんなじだろうが……」
一通り片づけても、持って帰らなければならない物もある。それでも櫂は、結女を背負って
やった。上機嫌の結女は、猫のように、櫂の首に頭をすり寄せる。
「おい、重いんだから、せめてジッとしてろ!」
結女が、突然思いついたように、ぐいっと後ろを振り返ると、櫂がよろめく。結女は、にっこりと
笑うと、藤乃と達郎に、「おやすみー」と手を挙げた。それから、もう一つ。
「たつ、愛してるよー」
ひらり、と宵闇に、白い蝶が舞う。
「……だってさ。たっちゃん?」
藤乃が、裏もない笑みで見上げた。達郎は、軽く溜息。やはり歩き出し、一言、呟いた。
「……聞き飽きたよ」


世の中、どうもうまい具合に、歯車が噛み合わない。達郎は、彼氏のいる藤乃に惚れている。
そんな彼は、他の男と同棲している女から、当人いわく、「愛されている」。もっとも彼は、
その「愛してる」は、彼女にとって「オハヨウ・コンニチワ」、もしくは「イタダキマス」程度の
ものだとしか、受け取っていない。今のところ、あちらが一方的にそう言っているだけなので、
聞き流している。それどころか、以前はっきり、「どーなったって、おまえ相手にソノ気にゃ
ならねぇ」と言った時なぞ、結女は、「それで良いの。私のこと、好きになったりしないでね!」
……彼女は、にっこりと。少しも、皮肉のようでも何でもなく、素直な声で。それからますます、
彼女の「愛してる」は、達郎にとっては戯れの言葉としかとれず、信じるというレベルの
対象にすら、考えられなかった。
結女と櫂は、どうも「精神的にはデキてない」というのが、苦肉の妥協解答だったが、
それも一般的見解とは、かけ離れた現状であって、当然、トラブルが発生する。

「しばらく見ないと思ってたら、また戻ってきたのね」
夜の八時も過ぎた頃。図書館を出て、講堂前まで歩いてきた達郎は、その裏口近くの
藤棚にさしかかったところで、「やべっ……」っと身を潜めた。結女と、藤乃の姿。
しかし、声の主は、別の一人。彼は
――おい、またかよ……。
彼は心中、舌打ち。リキエルのバッグ。灼けた色のロング。ひと月ほど前から、櫂が
付き合っている女。となれば、物議のネタは、自ずから割れる。
「ふじ……先帰ってて、ね……」
珍しく深刻な表情の結女が、心配顔の藤野を帰らせようとすると、相手は髪をかきあげ、
ふんっと息をつく。
「時間は取らせないわ。聞かれて困る話でもないし」
そう。アチラの言いたいことは、分かっている。というよりも、崎谷櫂に新しい女ができる度、
つまりは数ヶ月毎に繰り返される、「お決まり」の問答。
「また櫂のところに上がり込んだんですって?」
崎谷櫂は、バリバリもてる。黙って立っていても女の方から寄ってくるので、おそらく自分から
口説いたことはない。割とこだわらずに交際を承諾するから、彼と付き合い「始める」のは、
えらく簡単だ。しかし、付き合い「続ける」となると、容易でない。最長記録、九週間と四日。
理由は単純明快、女の方が、結女の存在にブチ切れるのに、そう長くかからないからだ。
自分が「付き合ってる」はずの男が、他の女と同棲していたら、堪忍ならなくても無理はない。
だが、かといってその彼女のために、櫂が結女を追い出すかというようなことは、絶対に
あり得ない。
「奈津子さん……でも、櫂の恋人は、奈津子さんだよ?」
「そう思っているのに、ひとの男のところに居座るわけ? ……子供みたいな顔して、
 とんだ淫乱女ね、あんた」
ぐっと顔色を変えたのは、藤乃。それを結女が、そっと柔らかい微笑で抑える。
枯れた藤の蔓が、狭い路地に影を落とし、海底の静かなざわめきを模倣する。
彼女は、そこにしっかりと両脚をついていた。
「私なんて、出て行ったって良い。そんなの、簡単なことだもの。だけど……それって、
 違うでしょ……?」
決して敵意は持たず、彼女は真摯な瞳で見上げた。
「私がいるくらいのことで、二人が恋人でいられないなんて、そんなはずない。
 櫂だって、そう思うから、私に出て行けって言わないんだと思う。そんなの、二人の間には、
 何も関係ないことだって……」
「『関係ない』? ――自分の男が他の女と寝て、それで何の関係もないだなんて……
 本気でそんなこと思ってるの?」
「あたしが邪魔なら、いつでも言ってくれれば良い。でも、今まで誰からも、そんなこと
 いっぺんも言われなかった。あたしに直接言うのが嫌なら、櫂に頼めば良い」
やばいぃっ……っと、緊張が最高潮。結女にしてみれば、極力刺激を避けている
のだろうが、感覚のズレが救えない。相手の眼が、みるみる険しく色を変えていく。
「お……怒らないで奈津子さん……そんなつもりじゃ……ない」
自分でも戸惑いながら、しかし結女は必死だった。
「だって、恋愛の成就とセックスって、同じことなの? ……違うでしょ?」
――決定的な言葉に凍り付いた場は、トンカチでブチ割られた。達郎は、心臓を
掴まれたような気がした。
「あたしは櫂の恋人じゃない、櫂もそう思ってない。櫂が奈津子さんのこと、どういう
 価値観で眺めてるかは知らないけど……私とは違う、別な感情で接してると思うの。
 きっとそう、だから私の存在なんて、櫂の恋愛には関係ないし、櫂は自分がそんなだから、
 相手もそうだと思ってるの」
大きな瞳が、人工の灯の下で、震えながら潤む。
「それって……酷(ひど)いかも。櫂って、酷い奴かもしれない。でも、それが櫂なの。
 奈津子さん、そこまで分からないで付き合い始めたのかもしれないけど、そんなの
 良くあることだし、大切なのは、これからでしょ? 今の櫂の、それが嫌で……
 櫂を変えたいなら、私なんか関係ない、私がいるかいないかぐらいで、櫂は変わらない。
 櫂が、自分から変わろうとしない限り、あなたが変えなきゃ……」
光に透ける、硝子(ガラス)色の紙風船が破裂したように、鼓膜に、むず痒い振動が集った。
ぶたれた頬を押さえようともしない結女を、見かねた藤乃が抱き寄せる。
――結女をぶった女は、その手よりも、その長い髪の影の方が、揺れていた。

彼女が去ってしまうと、結女はヘタり込んだ。
「ゆん、痛いの!? ……ひやそうか?」
肩先から微かに伝わる震えに、支える藤乃は、結女に涙を感じた。
「……可哀相だね。あの人」
え……? と、藤乃だけでなく、立ち聞きの達郎までもが、その言葉に眉をひそめた。
結女は少し、顔を上げ。
「あの人……あんな一生懸命に櫂を好きなのに……ちゃんと知ってるの。
 自分じゃ……櫂を変えられないって。だから……」
言いかけて、口元を押さえ、嗚咽が漏れる。それは、頬の痛みのためではない。
……そんな結女のことを、誰よりも素直に、言葉よりも早く理解できるのは、藤乃くらいの
ものなのだろう。だから彼女は、しっかりと抱き締めた。自分を殴った女の、その心の痛みまで、
同じく感じ取ってしまうような結女を。
――その光景を、達郎はしばらく呆然として、奇怪な現象に出くわした者のように立ち尽くし、
眺めていた。



「さよならダーリン 3」へ          NOVELSへ           TOPへ