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Shinobu 3




何故、律子が突然、自分に対して冷ややかな態度を取るようになったのか、信夫には
わからなかった。これまでにも、優しいかと思えば突き放し、意地悪を言ったかと思えば
抱き締めてくれるようなアンバランスは、繰り返し有った。けれど、それらと今度が違うのは、
彼女が何か他のこと、或いは、誰か他の人物のことを考えているように見受けられた点だった。
他の男だと、疑ったわけではない。だが、何かを考えようとしているのを彼に邪魔されたくない、
そんな気配が感じられた。彼女には彼女なりのプライヴァシーがあり、彼の及び知らぬ事情も
都合もあるのだろうとは思った。それでも、ああハッキリと邪険にされては、腹が立つというよりも、
相手にしてもらえない寂しさ、そしてそれを受け止められない、子供じみた、拗(す)ねるような
気持ちが起こる。
さをりはといえば、あの一件以来、最近は落ち着いていた。けれど彼の中には、既に強い
不信感が植え付けられ、どんな時にも、彼女に対して心を解けない感情が育っていた。
それまでは緊張で固められていたものが、律子への依存という、心地よい逃避を見付け、
そこに深く浸るようになってからは、一転して、感情的な防壁に変わっていた。
さをりに一体何が起こっているのか、それよりも、自らが被害者であり、身を守らなければ
ならないという、強い被害妄想に。律子のことを知ったなら知ったで、どうして正面切って
自分を責めないのかと、逆にさをりを疎(うと)むようになってすらいた。自らの疚しさを棚上げし、
さをりにすべての咎(とが)を転嫁させながら、彼女の儚い、霞むようなあの美しさも、弱さを逆手に
取った姑息な攻撃のように感じていた。……本当は、待っていたのかもしれない。こうなる時を。

「お帰りなさい……信夫」
彼が終電で帰ってくると、さをりがテーブルでうたた寝していた。彼女は慌てて起きたが、
信夫は「ただいま」とも言わなかった。
「まだ起きてたのか」
「最近、あなたの顔、よく見ていない気がして……」
事実、信夫は彼女を避けるように、顔を合わせた時でも、目を合わせないようになっていた。
「忙しいんだよ。悪いな、構ってやるヒマがなくて」
一見、優しい言葉のようでいて、ちっともその響きが無い。さをりもそれを感じてか、身を竦めた。
「御免なさい……当てつけじゃないの。私の方こそ、何もしていなくて……」
「そうだろうね。――俺は寝るから」
それ以上の会話を拒否するように、信夫は寝室に直行した。意図的に彼女を傷つけるかの
ような言動は、ほんの数週間少し前までは、考えられないものだった。その頃は、自分が彼女を
守るのだと、責任を感じながら悩んでいた。けれど結局、その重圧に彼は耐えられなかった。
その疲弊に、彼自身の疚しさが追い打ちをかけ、残るのは負担と、認められない自分の
度量の狭隘さ。さをりを守るという責任感が、鬱陶しい荷物になり、投げ捨てたくなっていた。
考え始めたら、何故自分がそこまで苦しまなければならないのかと、ナンセンスさに嫌気が
さした。今の彼には、律子がいる。何も要求せず、心身共に健全で、彼が心配することは
何もないような律子が。時々よく分からない気まぐれのように彼をなぶったりするけれど、
結局は彼を包んでくれる優しさが、彼女にはある。


「――さをりと、別れようと思う」
飲みに行こうというのに乗り気でない律子を、「大事な話があるから」と、無理矢理引っ張り出し、
信夫は打ち明けた。律子は、眉一つ動かさないまま、グラスを空けた。
「『大事な話』って……そのこと」
無関心な様子に、ちょっと予想が違った信夫に、彼女は更に、
「さをりさんとは、話し合ったの?」
「いや……まだだけど」
「どうして私なんかに先に話すの。当事者は、あなたと、さをりさんでしょう」
「律子だから……俺が今、さをりと別れたいのは、律子と一緒にいたいからだよ」
「……なるほどね。アチラを切ってからでなく、まずコチラに当たりを入れて感触を見る……。
 ――潔くないのね」
醒めた彼女の言葉に、信夫は戸惑った。律子はそれに先んじて、
「勘違いしないで。最初から言ってあったはずよ? アソビなんだって。私にとっては、
 アソビだったって。知らないなんて、今更言ってほしくはないわ」
「それは……でも君だって変わっただろう? 俺のことを、以前より考えるようになっただろ?」
「そう……あなたのこと、だと思っていた。あなたに近付いているんだと。それは確かね」
納得の行かない、謎めいた言葉。そして律子も、彼にというよりも、自分自身に、それを言い
聞かせているようだった。彼女自身、これまで気付かずにいたことなのだと。
横顔に、その真意を汲もうとするが、律子はあくまで無表情だった。
「あなたがさをりさんを愛していると言って、さをりさんを守りたいと言っていたのは、そう遠いこと
 じゃなかったと思うけれど。私の記憶違いかしら」
「それはそうだけど……判ったんだよ、あれから。俺は、自分のことで精一杯なんだって、」
「逃げるのね。さをりさんから」
単刀直入な言葉に、心構えが追い付かない。信夫は、しかしテーブルの下で拳を握りしめ、
「君だって言ったじゃないか、さをりは何をするか分からないし、いつどうなるか予測もできない、」
「原因は分かったの?」
「分からないよ、でも、もうそんなこと言ってる段階じゃないだろう?」
「あなたはさをりさんの手を取ったんでしょう? 彼女を繋ぎ止めようとして……。それを、手に
 負えなくなったからといって、放棄するの? 我が儘な子供に拾われて捨てられる仔犬
 みたい……さをりさんは、どうなるの? あなたにとって、彼女は何だったのよ」
「……君は何も知らないから、そんな風に言うんだ」
手厳しい律子に、信夫はうつむいた。しかし律子は、それにすら厳しい口調で、
「――あなたは、さをりさんに触れることはできないわ。体のことを言ってるんじゃない。
 彼女の魂に、よ」
信夫は流石にカチンと来たのか、思わず声を荒げた。
「さをりに会ったこともない君が、何故そんなことを言える!」
だが律子は、それにも一切動じない。
「あなたは自分の疚しさをぬぐいきれないことに苛立って、それを皆、さをりさんに転嫁したいのよ。
 彼女のことを労るどころか、自分の都合の良い口実にして、厄介払いしようとしている。
 建前として他人の心配はするような形を取るけど、結局、自分のことしか興味ないのね。
 あなた。……そういう人なんだわ」
「何を言ってるんだ……」
「あなたは、さをりさんから、私に逃げようとしているだけ。そして今度、私から逃げたくなったら、
 また誰かを見付けて、口実も探すのね。『アソビだって言ってたくせに、結婚しろと迫って
 くるんだ』とか何とか」
律子は、自分自身をも追いつめているかのように、額に手を当て、深い息をついた。
「……私のせいかもしれない。あなたが自分で向き合わなければ、さをりさんと向き合わなければ
 ならかったことに、私が頭を突っ込んでしまったから。私があなたに口実を与えて しまったのね。
 あなたの方は、放っておいても大丈夫だったんだわ。あなたは、最終的に自分を正当化して、
 自分を守ることができるひとだもの」
「君は、俺のことを心配してくれてたんじゃなかったのか?」
度重なる律子の不可解な言動に、信夫はこれが現実であることを、足下から確かめるように
彼女に問いかけた。それでもやはり、現実は現実でしかない。律子の態度も、変わりはしなかった。
「あなたの言うことを真に受けたからよ。あなたの言うことを、一方的に聞いただけでね」
「俺が嘘をついてたって言うのか?」
「そうは言ってないわ。ただ、『あなたにとっての真実』しか聞いてなかった。それだけよ」
「それ以外に何が必要だった?」
答えを求めるばかりの信夫に、律子は冷ややかな視線と、答えを向けた。
「……あなたが私と一緒にいたいと思うのは、『逃げ』よ。欲しいのは私じゃなくて、『シェルター』
 なのよ」
「逃げちゃいけないのか!? 何考えてるのか分からないような女から……。さをりは、とても俺の
 手には負えない。憎まれてるのか、愛されてるのかも分からない、」
「分かろうと、したの?」
彼女に問われると、彼は一瞬、言葉に詰まったが、
「分かるわけ、ないだろう……!? さをりが何故、何を思ってやってるのか、何一つ分からないよ……
 何故、俺を殺そうとしたのか……」
「殺す……彼女に殺意があったっていうの? 殺意を抱かれるような心当たりがあるわけね。
 あなたには」
「そうじゃない、そうじゃ……」
言いかけて、彼は口を噤(つぐ)んだ。ハッと目を上げると、律子と視線が繋がる。
そこから逃れるように、信夫はすぐに目を逸らした。
「それだけじゃない、あのパズルだって……」
「パズル?」
「この間、さをりが倒れた時、見たんだよ。絵も何も描いてない、真っ白なジグソーパズル
 ……一つだけピースが抜けて未完成なまま、置いてあった。一体何だろうと思ったけど
 ――何だか不気味で、訊く気にはなれなかった」
「……思ったのは、それだけ」
「そうだよ!」
「彼女がどんな思いでそれを作っていたのか。それは、考えなかったの?」
「……律子?」
その時信夫は、やっと気付いた。律子の目的が、彼を責めることではないと。
彼女から彼に向けられていたのは、嫌悪でも軽蔑でもない。……無関心。
そして、強いて言うならば、彼女自身に感じている後悔。彼女はテーブルに
両肘をついたまま、深くうなだれていた。
「信夫……決めるのはあなた。さをりさんと別れるなら、それはあなたの選択。
 何かを新しくやり直したいというのを止める権利は、誰にも無いわ。だけど……」
律子は、スッと立ち上がった。テーブルに片手をついたまま信夫を見た瞳は、
厳しい光に潤んでいた。
「――その時は、独りで立たなければだめ」
「律子……? 律子、待ってくれ、」
テーブルの上にキャッシュを置いて、そのまま踵を返した彼女を、信夫が追いかけるが、
出口で一瞬詰まり、外に出た時、彼女はもう、タクシーに乗りかけていた。
「律子!」
その声に、律子は一度だけ振り返った。けれどそのまま乗り込み、ドアは閉じられた。
「律子……」
車は、走り去る。十秒後には、もう何もなかったかのように静まりかえった、夜の街角。
誰も、何も、立ち尽くす彼を気に留めるものはない。光も、闇も、音も、皆すべて、
当然の無関心。
「……律子。見捨てるのか……俺を……今更」
彼女が何処に行ったのか。何処に行くのか。それすらも、今の彼の思考にはなかった。



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