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Ritsuko 3




「……そこの、公園の前で止めてください」
律子は、タクシーから降りた。そこに用があったわけではない。ただ何となく、少し歩かなければ
ならない気分だった。夜の冷気に、肌を冷やすために。……「彼女」に、会う前に。
――結局、まだ一度も足を踏み入れたことのないマンション。だが今、律子はその門をくぐった。
その胸に、「鍵」を携えて。
チャイムは鳴らさず、ノックをしてみようかと思った時、ドアがわずかに浮いているのに気付いた。
……開いている。律子は、そのままスッとドアを引いた。中に灯りは、ついていない。
初めての部屋なのに、躊躇は感じなかった。それよりも急ぐ心だけが、彼女を導き入れていた。
何処からか、冷気が漂ってきている。その香りをたどるように、律子は薄暗い部屋の中を、
ゆっくりと歩いた。そして、ドアの前。戸の合わせ目の隙間から、冷気が漏れていた。
「さをりさん……」
そこにも、灯りは無かった。ただ、カーテン、そしてベランダが開け放たれていたから、
夜の光が、外から室内に差し込んでいた。そして、外気も。
さをりは独り、窓辺にいた。細い椅子に腰掛け、何かと対峙するように。夜景と月の、
静かな夜と冷気を背景に、彼女自身が、一枚の絵……シャガールの夜の青さに、
身を沈めていた。そして、それよりももっと暗い、救いのない暗さに。――さをりが向き合って
いたのは、目前に立てられたスタンド、というよりも、そこに掛けられていた一枚のパネル。
「さをりさん……?」
律子は、反応のない彼女に、そっと歩み寄る。何一つ、目に見えるものは動かない、
静止した夜。時を刻む音。そして頬を撫ぜる冷気。それだけが、彼女に「現実」の認識を与えた。
さをりが見つめるものを、同じく見つめるように、律子は彼女の背後に立った。……真っ白な、
パズル。正確には、右上の部分に一ピース分だけ空白の残された、未完成のパズル。
何も、絵も写真もない、真っ白な、息を呑むような白さの。律子も、思わず息を詰めていた。
そして、ハッとすると、微動だにせずに、それを見つめているさをりの横顔を見た。
キリ……と、ガラスの糸が、引き絞られているような音が、耳に触れたような気がした。
細い、悲鳴のような、微かな声が。
「……さをり」
思わず、彼女の両肩に手を置いていた。身じろぎもしない彼女は、文字通り氷のような造形美に、
凍てついていた。睫さえ震えず、感情を表せないのではなく、魂を与えられていないもののように。
感触も、感覚も、みな、初めからも持っていないように。
「――壊せなくなったの」
どれほどの時が経過したのか、或いはわずかだったのか。律子は、冷気を慕うように、
さをりに頬を寄せていた。産毛が、微細な氷の針のように、そっと触れる。
「……え?」
「もう、壊せなくなったの。今までは、これができあがるのが怖くて……壊すことも怖かった、
 だけど、それよりできあがることの方が、ずっと怖かったから、壊していた。終わってしまう
 ことの方が……怖かった」
それでも、感情らしい色は見えない、冷たく冴えた声。何の色にも染まらぬ、真っ白な色。
「……だけど」
ふっ……と、彼女が律子にもたれかかった。
「動けなくなってしまった。どっちにも……もう」
律子は、自らの痛みの在処(ありか)も知らぬ彼女を、綿で包むように、抱き締めた。
「あなた自身が、壊れそうになっているからよ」
薄い、鈍(にび)色の空のような青みを帯びた、虚ろなガラスのように頼りない、愛おしさ。
「もう、限界なんだわ。――あなたは、シグナルを出していたはず。でも……彼では
 受け止められなかった。声……いいえ。何かしら。あたしを、あなたの元に導いたもの。
 彼を通して、私が感じていたあなた。そして私が探して見付けた、あなた」
律子の温もりが肌に伝えられた頃、さをりは身を震わせた。その時、初めて冷気を感じ取ったように。
「私……壊れるの……?」
初めて、声が震える。
「独りじゃない、私がいてあげる。だから、もう漂うのはやめにしましょう。――彼は、もうあなたを
 繋ぎ止めることはできないわ」
さをりの手が、律子の手を求めた。律子は、その手を、キュッと握った。
「私は、これまでのあなたを知らない。きっと、信夫も知らない。でも、あなたは覚えてる。
 覚えているけれど、思い出せない。思い出さない。――怖いのね……パズルと同じ、
 終わりを感じ始めると、怖くて、もう一度白紙に戻そうとして。でも、また同じことを、
 ボンヤリとした記憶をなぞるように、始めてしまう」
「私が……いけなかった……? 終わりなの、もう」
「誰にも裁けないわ。……誰にも。終わってしまったことよ。信夫は、あなたに必要だったものを
 与えられなかった。あなたも求められなかった。あなたたちを結んでいた『優しさ』は、
 嫌なことには触れないことだった。……たとえ、それが必要なことであっても。お互いに優しく
 していたんじゃない。それぞれ、自分に優しくしていただけ。だから終わり。それだけのこと。
 悲しいでしょうけれど……それだけのこと」
さをりは、静かに震えていた。月の冷たく澄んだ夜の森に、独りたたずんでいるかのように。
「――なくしてしまうのね……また……」
喉の奥に、むせび泣く声が滲んだ。幾度と無く繰り返し、また未来にも訪れるであろう痛みを、
気の遠くなるような切なさで、迎え入れて。
「いいえ……違うわ。あなたは今まで、なくしてこなかった。なくすのが怖くて、自分の中に
 それを持ち続けてきたの。繰り返し、繰り返し……終わりを予見するたびに。幾ら探しても、
 見付けられなかったはず。だって、初めから、なくしてなどいなかったのだから」
律子の手の上に、熱い雫が滴っていた。公園で出会った時の涙。それとは異なる、現状維持
ではなく、確実な終焉を予感する涙。
「あなたは、なくさなければならないの。さをり……完全に失って、そこで初めて、何もかも
 新しく始めることができる。でなければ、また繰り返すだけ。……私にも、やっと分かってきた。
 ――傷つくことを恐れて、眠り続けてきたあなたの心。それでも、終わりと、始まり。
 その両方の予感に苦しんで、死に物狂いで藻掻いていたあなた。……目覚めるには、
 眠りの世界を壊さなければならない。たとえ、傷つくことになっても」
律子は、軽く溜息をついた。
「本当は、あなた自身で起きなければいけなかったのよ。でも、独りじゃ、不安だったのね。
 責めはしない。……私が、ここまで入ってきたのは、自分の意志だもの」
人の眼を誘(いざな)う花。その美しさに、匂いに咎は無い。誘われたのは、自分の心。
けれど花は、無意味に美しくは咲かない。彼女の姿に心誘われ、その手を取った人間は、
恐らく、これまで幾人となくいた。けれど、彼女が発していたシグナル――それを解き明かす
ことのできた者は、誰もいなかった。彼女の内ではなく、それぞれの内でしか、その意味を
理解しようとしなかったために。
「あなたは、終わってしまう前に、壊してきたと言ったけれど、違うわ。壊すことで、維持してきたの。
 なくしてきたわけじゃない」
そして律子は、そっと片手をさをりから外し、シャツのポケットに、その手を差し入れた。
「でも、ちゃんとなくさなければだめ。『終わり』は、苦痛を伴うものだけど、それを経なければ、
 変わってゆけないもの」
彼女がさをりの目前に差し出されたのは、あの、最後のパズルの一片。言葉には出さない。
けれど、さをりはそれを受け取った。自らに課されたものとして。その手が、ゆっくりと伸びる。
律子は、その行く末を、しっかりと見据えていた。自らが持てる限りの思いで、彼女を抱きながら。

そして……“空白”は完成した。

「――痛い……?」
緩やかな軌跡を描き、在るべき所へと戻ってきた彼女の手を、律子が迎えた。
「……でも、これでオール・クリア。本当の『原初(はじめ)』に還れるのよ」
「……どういうこと?」
「あなたが生まれ変わった。……生き始めた。そういうこと」
さをりの喉から、嗚咽が漏れた。この世に生を受けたというのに、その瞬間から全身全霊で
苦しみ嘆く、嬰児のように。新しい生の代償の喪失。認識よりも感覚で、その痛みに震えて。
そんな彼女に、律子は静かに呟いた。
「終わったわ。……でも、だからって、悲しまなくても良いのよ。――やっと、始まるのだから」

(ほの)暗い室内では、“空白”だけが、ぼんやりと白く、浮かび上がっていた。
水面に揺らぐ、月影のように。









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