「blanc  Ritsuko 2ー1」へ          NOVELSへ           TOPへ


Shinobu 2



「延長はナシ。今夜は帰りなさい」
まだ彼女の温もりから離れがたく、まどろみに入ろうとしていた信夫に、律子は刻限を告げる
時計台のように宣告した。突然見放された子供のように彼女を見上げた彼に、律子は優しく、
諭すように。
「あなたには、待ってる人がいるんでしょう? アソビには節度、本命には誠意。それが肝腎よ」
信夫には、どうしても彼女のこういった心情は、理解できなかった。かといって、嫉妬や束縛に
煩わされることを期待したこともないから、それは彼の勝手な言い分だった。
一見、「都合の良い女」のような律子だが、それにしては、彼女は主体性を持ちすぎている。
しかし彼女は、支配者でもない。彼が、何故律子が自分と関係を持ったのか、その動機を
問うた時、彼女はこう言った。

“『そういう関係』を、みんなドラマティックな偏見で固めすぎてるのよ。与えるとか征服とか、
 上下関係で考えるひとが多いし、そういう面があるのは確かだけど、もっと違った形の関係が
 あると思う。もっと自然に交わされるもの、日常的なコミュニケーションとしてね。『現象』よ。
 意志でどうこうするんじゃなくて、空が晴れたり曇ったり、それと同じ”

――今でも、信夫には彼女の論理は理解できない。

急に冷えると思ったら、外に出ると、雪がチラついていた。ちょっと風は強いが、長くは続かない
だろうし、積雪というほどにはならないだろう。
「じゃ、また明日。おやすみなさい」
律子は名残も惜しまず、信夫に背を向けた。彼が打ち明けたすべてを、こぼさぬ内に帰るように。
うっすらと白んだ路上に、影が落ちるように、彼女の足跡が続いてゆく。いつまでも目が離せなく
なりそうで、彼は顔を背けた。独りになると、逃げたい事柄のことばかり考えてしまう。
とにかく信夫は、首をすぼめるようにしながら、歩き出した。

律子の言うように、やはり、さをりは自分と律子のことを、察しているのか。彼は、律子とのことが
あってからも、さをりを顧みないようなことは、していないと思っていた。律子と関係を持ったこと
自体を、さをりに対しての裏切りと考えれば、これまた随分と説得力のない主張ではあるが。
だが、もしそれが原因であるとしても、さをりの側に、そういう素振りがカケラも感じられないことに、
苛立ちが募った。さをりが何を考えているのか分からない、彼女の内面に触れられない自分。
彼女を守りたいと言っているにも関わらず、実際はこれまで何もしていない自分、逆に他の
女性と関係を持っている、疚しさに背を丸めているような自分に。それを考えるのは、苦痛だった。
知っているなら知っているで、その後の対処を考える気にもなる。けれど律子の言うような、
「本能的に感じている」とういような漠然としたレベルであれば、やぶ蛇に自分から打ち明ける
こともできず、どうしようもない。だったら、とにかく律子との関係を断ち切れば、一つ問題は
解決されようというものだが、彼にその発想は浮かんでいない。さをりと別れることも、考えていない。
彼の当面の重大事は、さをりが律子のことを知っているのかどうか。その領域を出ていなかった。
だから、何も進展するワケがない。律子が言ったのは、そういうことだった。さをりを心配している
ような口ぶりでいながら、未だ彼は、自分自身のことのみに固執している。
自分、そして自分の中のさをり、それだけに。


「――さをり? ……いないのか」
帰ってみると、玄関の鍵は開いていた。しかし、中では部屋中の灯りが消えていた。
それと、外気と少しも変わらないような室内の冷気に、彼は異様な感覚を覚えた。
まるで今日一日、この部屋に火の気はなかったような。ベッドルームにもいない。となると、
互いの部屋。彼は、彼女の部屋をノックした。特に約束したわけではないが、基本的に
互いの部屋だけには、立ち入らないようにしていた。しかし、返事はない。いるのかいないのか
だけを確かめるつもりで、少しだけドアを開けたら、凍るような風が一筋吹き込み、ハッとした。
これは、外気だ。
「……さをり!」
ドアを開けると、ベランダが開け放たれ、雪が吹き込んだその白い空間に、彼女がうずくまるように
倒れていた。灯りもつけぬまま、一体いつからこんな状態でいたのか。信夫は驚くよりも、
とにかく彼女を抱き起こした。……何という情景だろう。彼女はまるで、白いキャンヴァスの
空白の中に、自身をうずめようとしていたかのようだった。手も頬も冷え切って、雪の中に
うち捨てられた人形さながらに。
「さをり、一体……」
体を揺すぶっても、眼を開けない。とにかくこのままでは冷え切ってしまうからと、ベッドルームに
運んだ。暖房を最大につける。衣服に付着した雪の結晶が溶けて、彼女の体を濡らし始めて
いたから、着替えさせなければならない。それを始めた頃に、突然さをりの腕が巻き付いて、
信夫はビクッとした。
「信夫……」
だが、どうやらいつもの彼女らしいと、ホッと息をつく。
「どうしたんだ一体……窓を開けっ放しにしたりして。貧血でも起こしたのか?」
「いや……」
ぎゅっ、と抱きついた体が、微かに震えている。寒さと……おそらくは、恐れ。
「怖いの……あの、白さが……終わってしまいそうで……」
「白さ?」
「何かしてしまいそうで、信夫、私、怖いの……!」
信夫は、彼女を落ち着かせようと、強く抱いていたが、彼女が何を言っているのか、それは
さっぱり分からなかった。だが、それを問い返すような状況でもない。「白さ」というのは、
あの雪のことなのか。うっすらと地表に、粉砂糖のように降りかかった?
「とにかく風邪ひくぞ、な、着替えて……」
彼女が抱きついたまま離れないので、着替えさせるだけで、それから三十分はかかった。
その後、急いで彼女を担ぎ出したため後回しになってしまった、開け放したままのベランダや
吹き込んだ雪の処置をするために、彼は再び、さをりの部屋へと戻った。今度は入り口で
灯りをつけ。すると、戸口の横に、白い布に覆われたボードを立てかけた、木製のスタンドが
あった。その唐突さと、飛び込むような白さに、彼は一瞬、ぎょっとさせられた。取りあえず、
わずかな雪は溶けて、カーペットにしみてしまっていたから、暖房を入れて放っておくとして、
ベランダのガラス戸を閉めた。もう、雪は完全に止んでいた。カーテンを引くと、一息。
そして振り返ると、目に入るのが、あの白い布。……何かの絵だろうかと思われるが、彼女が
絵を描くとは聞いたことがない。それとも、絵ではないのか。だとすれば一体、何だろう。
大した興味ではなく、チラと布の端をめくった彼は、一瞬、自分が見たものを理解できず、
そして次の瞬間、バッとその布をはぎ取った。

そこにあったのは、絵も柄も、何もない真っ白な、最後の一箇所だけが抜けたまま空白の残された、
それ自体が大きな空白のような、未完成の白無地の、ジグソー・パズルだった。


* * * *


「二億だってよ、二億」
「――え、何の話?」
「昨日、コンピューターが、運搬の時、トラックから転げ落ちて、ひと転び二億円」
「うっそー……保険は?」
「そりゃ入ってたから、損害はないけどさぁ。あんなデカブツに落ちてこられたら、ヘタすりゃ
 人死にが出るよ。先月も事故あったばっかだから、エンジじゃ呪われてるんじゃないかって
 言ってる」
「うーん、過労死した技術者の呪いかしら。お祓いした方が良いかもね」
背後で、律子が他の男と喋っていた。信夫は、自分こそが呪われているような面持ちで、
それを聞いていた。
さをりが倒れたのは一昨日のこと。信夫は一日、仕事を休んだ。
さをりは微熱を出した程度で済んだが、例の如く、自分が何をしていたのか、まったく覚えて
いないとういことだった。ただ、何かに異様に怯えていた。彼女の部屋の、あの白いパズルの
ことも、信夫は訊こうかという思いに何度も駆られながらも、どうしても訊けなかった。
何の変哲もないパズル。だが、あの状況下でのあのオブジェの存在は、複雑な啓示を
込められた寓話を封印した、パンドラの箱のように感じられた。何ということはないものなのかも
しれない。あの「空白」は、何を意味するのか。さをりに、そして彼自身にとって、一体何を。
考えることは、心に重かった。
律子との密会の後であったという、心の隅にある疚しさもあって、「さをりは本当に何も覚えて
いないのか」という疑いが、信夫の中に色を濃くし始めていた。もしかしたら、本当は何もかも
知っていて、狂言であんなことをして、自分に当てつけているのではないか。だが、あのさをりが、
そんなことを……? 心の一方では、それを絶対に打ち消そうとしながら、もう一方で、その
可能性を完全に否定することもできない。だとしたら、さをりが自分に危害を加える意味も分かる。
そして、倒れたことにしても、彼の関心を自分に引き付けようとする、自傷行為だと納得できる。

さをりはこれまで、どんな顔をして、数々の奇行を為してきたのか。
信夫の中の疑問の一つは、彼女に異変が起きる時は常に、彼に見えない場所で始まる、
という点だった。灯りの消えた闇の中、或いは彼の背後。スカーフで首を絞められたこともある。
その時も、信夫からは彼女の表情をうかがい知ることはできなかった。あの穏やかなさをりが、
一体どんな顔をして、自分の首を絞めるのか。後になってそれを考えた時の方が、実際に
首を絞められた時よりも、一層、慄然とするものがあった。その時彼女は、本当に「彼女」なのか。
その疑念が晴れなかった。殺意、憎悪……そんな感情を持った時、あのさをりの美しく涼しい
面影は、一体どんな形相になるのだろう。

「何、これ」
すいっ、と律子がのぞき込んで、信夫はビクッとする。
「あ……あぁ、合成してるんだよ」
「そりゃそうだろうけど。『笑う牛』?」
広告用に、牛の顔と、人間のお笑いタレントの顔を合成した写真を作っていた。
「ちょっと……ぶっきーよね。可愛いとは言い難いな」
「失敗……なんだろうな、やっぱり」
彼が呟くと、律子が吹き出した。



「blanc  Ritsuko 2ー1」へ          NOVELSへ           TOPへ