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Ritsuko 2−



律子の目から見ても、信夫はあきらかに被害者意識を募らせていた。口では直接言わない
ものの、さをりが自分を追いつめているのだと、自分の周りに防壁を築いているのが感じられた。
実際に何があったのかは分からない律子にとって、理解できるのは、信夫というフィルターを経た
一方的な情報を通してのことだけ。今でも律子は、何故自分が彼のプライベートな事態に
深入りしたのか、その動機は理解していない。何かが彼女を引き付けた。それだけ。
そして今も、信夫を救いたいとか、そういう思いで動いているのではないことだけは、確かだった。

ある日、律子は信夫には何も言わず、会社には生理休だと偽って休みを取り、さをりを訪れて
みることにした。何かを打開しようと思っての行動ではない。彼女自身理解できていない、
自分を引き寄せているものを知りたいという欲求だった。それが何故、こういう行動という形を
取るのか、それもまた、理解してはいなかったが。だから、計画性も何もなく、ただ取りあえず
信夫達の住むマンションの周辺へと、足を運んだ。流石に唐突にベルを鳴らして、さをりと
顔を合わせて、何かを喋る気にはならない。
天気は晴れていたが、雲一つなく、逆にすべてが空に吸い上げられてゆくように、
寒さが際立つ日だった。律子は空を見上げ、その溶け入るような青さに、息を詰めた。
そういえば、空を見るなんてことも、忘れていた気がした。
「こんな日でも、窓もないオフィスに閉じこもって、天気も分からないような環境にいるんじゃあね……」
ふと、溜息をつく。雲の流れや、季節の色を顧みなくなって久しい、自分を含めた仕事人達の
さもしい生活が、滑稽じみて感じられた。そして彼女は、マンションに向かう途中だったが、
近くにある公園へと、進路をわずかに変えた。木々を揺らす、風のざわめく音が聴きたくなって。
――だが、そこで彼女は、思いがけない遭遇をした。

女性が、立っていた。黒いセーターに、深いモスグリーンの、ウールのジャンパースカート、
そして、ゆったりと彼女の細い躯を包むショール。平日の昼下がりで、遊ぶ子供の姿もない。
風が、長い髪を揺らしているが、寒そうでいて身を縮めることもせず、公園の中央にたたずむ
彼女は、ずっと眼を閉じていた。何かに、耳を傾けるように。
律子は、ゆっくりと息を吐いた。白く曇る吐息が、目の前の情景を、一瞬、霞ませる。
何を考えるわけでもなく、足取りだけは確信に満ち、彼女はステップを取った。
乾いた砂が、彼女の足下に絡みつく。手を触れるまでは、それが現実の映像なのか
信じることはできない構図。律子はそこに、一歩ずつ、近付いた。ザッ……と、砂が靴の
裏をこする。立ち止まると、バッグの紐を、肩にかけ直した。

立ち尽くしていた彼女は、律子の気配を感じてか、やがて、そっと眼を開けた。
眼を開けて、それからゆっくりと、彼女の方へと、視線を巡らせた。
「何か……聞こえるの?」
視線が出会った時、律子が言った。
「……いいえ。何か、聞こえるような気がしたんです」
何の警戒心も見せず、彼女は律子に答えた。遠い、遥か遠い場所に心を置いたような、
神秘的な瞳で。
「風の音じゃなくって?」
「いいえ。……音楽、みたいなものです。遠い所から、冷たい花の匂いのように、漂ってくる」
その時の彼女は、律子をどのように見ていたのだろう。道端に何かがあっても躊躇せずに、
ひたすら目的地へと急ぐような、都会的なテンポが身に付いた隙のない立ち方と、
ペンでくっきりと描かれたように際立つ容貌の律子を。
或いは、彼女は、「見て」いるのだろうか。とらえどころのない、ふうわりとした印象。
精巧なホログラムのように、美しい幻なのではないかと感じられる、質感の無さ。素描画の面影。
じっと見つめる律子の視線にも無反応に、彼女は空を見上げた。
「……音楽」
「えぇ」
呟くと、瞼(まぶた)の裏に刻まれた記憶を探すように、彼女は眼を閉じた。
「美しい旋律が、頭の中に流れていて――そんな時には、寂しさ……或いは、幽かな哀しみが、
 私の中を巡っているんだと思います」
律子は、風の囁きを聴いているような気がした。人間が心を向け、細やかな労りを持たなければ
聞き取れないような、密やかな声。
「……あなた、何か不安なの」
律子が尋ねると、彼女は視線を下ろし、一歩……二歩と、踏み出した。
「自分が、ほんとうに『自分』なのか、自信がなくなる時があります。自分が本当に、この現世
 (うつしよ)に存在しているのか」
「何故、そんな?」
律子も、彼女に歩調を合わせ、歩き出す。意志を持ってではなく、見えない糸で繋がれたように。
「意識の下に、眠っている真実があるような気がして。……怖いんです。愛するひとがいる
 ということは、失いたくないひとがいるということだから」
「……壊したくないのね。今を」
「以前も、同じことがあったような気がして……それが何だったのか、見つめれば分かるようにも
 思えるけれど、でも怖いんです。自分が、そこへ引き込まれてしまうんじゃないかと……」
彼女が、ふと立ち止まった。
「どうしたの?」
きゅっと、彼女は両腕を強く抱き、身を縮めた。寒さというよりは、痛みから身を守ろうとするように。
「何処かに……流されてしまいそう……」
助けを求めることも思いつかない幼気さに翻弄されながら震えている彼女に、律子は思わず、
手を伸ばしていた。背後から、そっと彼女を抱くと、冷たく凍えたその手に、自分の手を重ねた。
「――あなたは生きて、ここにいるわ。あたしが触れているあなたは、確かに存在している。
 ……それを疑う必要は、ないわ」
手の上に、熱い雫(しずく)がしたたり落ちた。凍てついてゆく感覚を、溶かすように。
律子の中に生まれていた熱い何かが、回帰する場所を求め、そこに繋がる。
「……大丈夫。怖がらなくても良いの。嫌なことを考えて、自分を追いつめてはダメ」
律子は、冷たく頼りない指に、温もりを伝えるように自分の指を絡め、柔らかに握った。
微かな力で、彼女もそれに応えていた。
「……有り難う……ございます」
「寒くないの?」
「えぇ……もう大丈夫です」
彼女は、律子の手を解いた。拒むのではなく、向き合うために。
不思議な女性だった。現実感の無い、それでいて目を離せない。感情よりも早く、律子の
本能的な感応を結びつけたものは、何なのか。初対面から、名乗り合うことすらせずに
語り続けることのできたわけは。彼女は、瞼の縁の涙を、薬指でぬぐった。
「いけませんね、こんなの。自分に自信がないから、信じられないんです」
「……彼のことが?」
「いいえ。自分のことが。……こんな自分が、愛してもらえるはずがないって。
 だから怖くて、どうしようもなくなるんです」
「それは罪ではないわ。当然のことよ。だけど……どうするの? 怖くて、どうしようも
 なくなった時は」
その問いに、彼女は、ふっと笑った。自嘲というには慎ましすぎる、切ない、ほろ苦さと甘さの、
恥じらいを含んだ笑み。
「独り遊びをするんです。他愛のない。……白い、真っ白な、何も絵柄のないパズルを、
 ひとりで作るんです」
「独りで……ずっと?」
「でも、できあがる寸前になると、全部壊してしまいます。どうしても、最後のピースを埋めて、
 完成させることができなくて。そうしてまた、最初から始めるんです。その、繰り返し」
恐ろしいほどに単調な、空白を埋めて空白を完成させるという作業が、律子のイメージに
浮かんだ。果たして何の意味があるのか、考えてしまったらおしまい。きっと、そんな危険を
(はら)んだ自己欺瞞。彼女は、また自分の肩を、そっと抱くと、首を傾けた。
「終わってしまうのが、怖くて。自分で壊してしまいます。……馬鹿みたい」
「どうして白いパズルなの? もっと、綺麗な景色や、絵柄のものも、幾らでもあるじゃない」
「気付いたら、それが手元にあったんです。最初は、何だか分からなかった。でも最近、
 それが分かりそうになって。……それがとても不安でした。何かを、思い出しそうで。
 思い出したら、何かが大きく変わってしまいそうで」
「――昔、何かがあったの?」
「思い出せないんです。誰かが……何かに憑かれたように、ずっと白いパズルを作っていた
 気がする。毎日……一日中。……母かもしれない。でも、私は母のことを、よく覚えていません」



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