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Shinobu 1−



さをりがおかしくなり始めたのは、いつ頃からだろう。そう言うと語弊があるが、彼女は元々、
かなり神経質だった。だが、発作的に彼の首を絞めたり、物を持って殴りかかったりというのは、
当然のことながら、出逢った頃には無かった。それが一体、どういう切っ掛けで始まるものなのかは、
分からない。お陰で最近、彼は生傷が絶えない。そしてどうやら彼女自身は、その時のことは、
意識にも記憶にも、全く無いらしい。普段は絶対に、そんな凶暴なことをする女性ではない。
神秘的なまでに繊細な外見そのままに、彼女自身が、ガラス細工の花のような、無闇に触れて、
その花弁を散らしてはしまわないかと気遣ってしまうほどの存在で。だから、今回の件にしても、
彼女自身、自らが無意識に発揮する信じがたいほどの暴虐性に困惑し、怯えてしまっている
というのが現状だった。
信夫が出会った頃の彼女は、本当に、彼なぞが触れても良いのだろうかと思うような、夜露を
含んだ菫(すみれ)の花のような女性だった。今も、それは変わらない。彼はその花を、腕の中で
愛おしんでいた。さをりもまた、風を恐れるように、彼の傍らに身を寄せ、彼の腕を支えにしていた。
それが、何故。いつから……?
律子のことが原因かと考えたこともあるが、さをりの素振りに、そのような点は見受けられない。
信夫には、どう考えても、情念だとか嫉妬だとか、そういったドロドロとしたものとは一切
関わりのない存在が、さをりだった。そしてまた、彼女の交友関係や、仕事についての問題
ということについては、彼には一切分からない。精神的に高ぶる彼女の姿を見ると、うかつに
「病院」などという言葉も出せず、また信夫の心情としてもその選択は、容易には決断できなかった。


彼が可愛い相棒・マイラの前で肘をついて、実は居眠りこいてた時、すっ……と人の気配が
通り過ぎた。ハッと起きて振り返ると、律子の後ろ姿。なんだと思って目を落とすと、メモが
置かれていた。

“どうしたの? 無理し過ぎちゃダメよ? ちゃんと食事してる?
 よし、今夜はごちそうしてあげよう!”

思わず、彼の口元から苦笑が漏れた。律子の、カラッとした快活さが、鬱屈したものを
吹き飛ばしてくれる。救われる思いだった。ふと目を上げると、目の前のディスプレイで、
グラフィックの魚が泳ぎ始めた。

「――仕事し過ぎよ、信夫」
さをりとは絶対に行かないような「しゃぶしゃぶ食い放題」で、濛々と立ち上る同じ鍋からの
湯気を浴びせ合いながら、信夫は律子のご馳走になった。
「やってなんぼ、月収ゼロから百万円、みたいなフリーならまだしも、幾ら手当付いたって、
 休息は金に替えらんないわよ。経済的安定は勿論だけど、彼女と過ごす時間のために
 やったことが、本末転倒じゃない。――あ、じゃんじゃんやろうよ、こういうのは元取って
 やらないと、腹一杯になっても、しゃくに障る」
「太っ腹なんだかケチなんだか分からないな、君は」
彼が微笑する間にも、律子は一気に皿を空けて、「一丁上がり、追加!」と声を上げる。
「カラダが資本、つまり食事が基本なのっ。見てりゃ、男の人って、放っておくと、無茶苦茶な
 食物摂取の仕方なんだもの。信夫なんて、パン片手にもう片手で仕事、なんて超不健康、
 よくやってるから心配にもなるわよ。大体、エンジニアとか、超過勤務が多すぎるし! 
 過労死する寸前までしぼり取られて、後に残るのはカスだけになっちゃうんだから。
 そうなったら、もうタダの産業廃棄物よ」
彼らの職場は、コンピューター・エンジニアリング会社の分室のようなところにある。
エンジは大体、慢性的に人手不足なので、技術者は酷使されている。
「……ごめんね。昨日から、悪ふざけが過ぎた。疲れてるところ、元気にしようと思って、
 却って疲れさせちゃったみたい」
似合わないようなしおらしさでビールを注がれると、彼も何も言えない。
「……良いよ。これでチャラだ」
その素行からすると意外なほど素直なのが、また律子の魅力だった。親密になっても
サバサバとしていて、濃厚にベタついたとしても、後がしつこくない。信夫が気を遣う必要など
何も無さそうな逞(たくま)しさを感じさせる女性だった。
――さをりのことが、愛しくないわけではない。ただ、律子とさをりを比べることは、今の彼には
できなかった。やはり、違う。卑怯だと思われても、それぞれ惹かれる場所も、惹かれ方も、
まったく違う。そんなことは、律子には打ち明けていない。だが、きっと彼女は知っているように
思う。だから、あんな意地悪をしてみせるのだと、彼は思った。愚かしい男の性(さが)を、
面白可笑しく、そして優しい眼差しで観ているのだと。
「何か、仕事に没頭して忘れたいことでもあるの?」
答える代わりに、それとなく目を逸らし、彼はグラスに口を付けた。察しない律子ではないと、
分かっていて。
「……愚痴って良いからね。私に。大丈夫、口開かせるのはプロだけど、私自身は石のように
 口が堅いの」
手酌でビールを注ぎながら、彼女は静かに言った。
「勿論、そんな話したくないっつうのを吐かせる気は、今は、毛頭無いし」
そして、彼の持っていたグラスに「乾杯」。自然に誘う溜息が、湯気の中に消えた。
……言ってしまいたい思いはあるのだけれど、切り出す切っ掛けがない。というか、何を
どう言えば良いのか、彼には見当が付かなかった。
「一緒に住んでる人って、何て言うんだっけ」
屈託無く、箸であちこちつつきながら、無造作な質問。そこに深い意図はない。
だから、彼の口も、自然と弛む。
「……さをり。帆足(ほあし)さをり。フランス語の児童文学や童話の翻訳の仕事を、在宅で
 やっている」
「うげげっ、ウルトラ・ファンシー。そこまでやられると、かなわないな〜」
律子はカラカラと笑った。重たいことも軽快にしてしまうような笑みで。
「でも、そんな、うちから出ない人なら尚のこと、連日遅いのは可哀相じゃないの?
 ノイローゼとかになっちゃってからじゃ遅いぞ?」
「……それ、全然シャレにならない」
信夫の暗い呟きに、「えっ……」と、流石の律子も息を呑んだのが分かった。


制限時間いっぱい食い続けそうな勢いの律子だったが、早々に場所を引き上げて、
静かに話のできる場所に移った。導かれるまま、何からというでもなく、中年の愚痴の
ようにポロポロと、酒にまぎれながらこぼれ出るままの信夫の言葉を、律子は黙って
聞いてくれた。
「……考えてみれば、理屈じゃないんだ。こんなに近くにいても……深いところには
 何も触れずに、傷付かない場所を与え合うだけだったのかな。だから、力になりたい時にも、
 なれないんだ。分からなくて……」
「それはそうと……大丈夫なの? 彼女もだけど、あなたの方も。そんな、いつ豹変するか
 分からない人と一緒にいて。いや……他意はないわよ? ただ、信夫にもしものことが
 あったら」
「大丈夫……だと思う。元々、そんな力もないし。割とすぐ、正気に返ることは返るんだ」
彼は、自分で言っていても、何かヘンだという気がしたが、本当に打ち明けてしまって
良かったのか、戸惑いが思考を前後していた。別に外聞を憚るというわけでもなく、
自然、呟きになる。そんな彼に、律子は率直な言葉。
「……悪いけど。私には分からない。あなたが、何故それでも彼女と一緒にいようとするのか」
「それは、」
「愛してるから? 何を? 何のために? 話を聞いていても、それが伝わってこないわ」
「……きっついな」
甘えるつもりもなかったけれど、急に当たりが激しくなったような気がして、くっと頭が重くなって、
彼は、がっくり肘をついた。しかしそこを、律子の腕がすくう。
「だって……今、一番大切にしたいことは何なの? どうしたいかって、本当に考えてる?
 信夫……」
彼の肩を抱いて、包み込むような囁き。
「考えなきゃ、潰れるよ。何もできないままに……」
耳元に、口を寄せて。昨日の夜とはまったく違う、綿に包まれるような温度。ふっ……と、
吐息をかけたら消え入ってしまうような、雪の結晶。そんな儚い存在になった気持ち。
デリケイトで、大切にしてもらいたいと思う気持ち。そして、「抱きたい」と思う我が儘と、
「抱かれたい」と願う我が儘。どちらかを選べない意志の弱さを、そのまま抱き締めてくれる。
許してもらえるのではないかと思える、ひとの温もり。――許してほしいと思った。



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