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Ritsuko 1



「原因は、何だと思ってるの。やっぱり……私とのこと?」
律子は、白いバスローヴ姿で、ホテルの窓際に立っていた。途端に嫌な顔をした信夫に
対しても容赦なく、必要であることのように、彼女は無感情に問いかける。
「……それはないと思う」
信夫は、くしゃっと髪に手を入れる素振りで、そのままうつむく。防衛本能なのか、縮こまるように
片膝を立てると、シーツが雪山のように隆起した。律子はその裾野に、視線を滑らせる。
「何故?」
「何故って……律子のことを知るわけないし、今まで……そんな様子、見せたことはないし」
「……愚かすぎて、言葉も出ないわね」
本当に呆れたような声に、信夫は顔を上げた。律子は、テーブルの上に置いたバッグから
煙草のケースを取り出した。だが、まだライターが見つからず、ゴソゴソとバッグをかき回しながら、
「確かに、私のことは知らないかもしれない。でも、何かがズレてきているということを、気配で
 感じて……理解よりも先に、不安に体が震えるようなことだってある。本能的にね。
 そして、自分では必死に否定する感情が、意識下に押し込められていることもある。
 それは、女なら誰でも持っている『業』の部分。あなたは、さをりさんのイメージを、自分の
 良いように、単純に造り上げてしまっているんじゃないの?」
「それは……」
見付けたライターで、やっと火をつけ、すうっと一服。
「――さをりさんに、飽きた?」
「……違う」
何故そんなに厳しく追及するのか、と救難信号を送る彼にも気付かぬふりで、律子は続けた。
「じゃあ、何をしたいの。あなた、ただ戸惑って、悩んでるだけで、ちっとも先に進みそうにない」
さっきまではあんなに優しかったのに……と、信夫の中で、戸惑うような腹立ちが、わずか
ながら募っているのにも、手に取るように分かっていて。彼女はただ静かに、彼の言葉を待った。
だから、彼も言葉を継ぐしかない。
「僕は、さをりを……愛していると思うし、あんなに悩んで苦しんでいることから、護ってあげたい。
 彼女には……俺しかいないから」
律子は、深く息を吐いた。意味は無い。信夫の口調の不確かさにも、あえて口出しはしなかった。
今のところは。
「そういえば彼女、家族は?」
律子は唐突にそれを思い付き、ハタと思考が静止した。信夫を見ると、彼も自信無さそうに、
「さをりは……家族のことは、話したがらない。いないのかもしれない。 どうも、何か昔に
 あったらしくて」
「――ホントに、お互い嫌な所にはノータッチで来たのね、これまで」
正にその通りなので、信夫は何も言えない。律子も、彼の返答は期待していないから、
もう一度深い溜息。
「彼女、凄い神経質な人みたいだけど……あなたの想像以上に、彼女にとっても信夫への依存の
 意味は大きいかもしれない。だとしたら今、真剣に彼女のことを考えてあげなければ、危険よ」
早々に煙草を灰皿に押しつけて彼女が言うと、今度は信夫が、溜息のように苦笑した。
「なに?」
それに気付いた律子が尋ねると、彼は、
「……君は、よくわからないひとだね」
律子は眉をひそめ、
「何が?」
けれど、彼は答えなかった。答えられなかったのだろう。自分もまた、こうして律子と時を
過ごしながら、二人で他の女性、彼の恋人について話している、よく分からない人間の片割れ
だから。律子も、ほどなくそのことに気付いた。
「信夫、言ったでしょう?」
そして彼女は、あの有り難い言葉を、もう一度彼に繰り返した。
「『それはそれ、これはこれ』よ」
「アソビ……じゃなかったのか?」
「アソビよ、今でも。私なりのね」
彼女がベッドサイドに腰掛けると、信夫が腕を伸ばした。律子は、それを拒みはしなかった。
確かに、以前とは何かが変わった。それは律子も感じていた。さをりの存在は、信夫と関係を
持つ以前から、何となく察していたが、別に何とも思わなかった。今も、嫉妬や対抗意識
などといったものは、一切ない。信夫に対する独占欲も持ち合わせてはいない。
だが、ここに来て、さをりの存在が、奇妙に浮かび上がり始めた。好奇心なのか、或いは
もっと別なものなのかは、まだ分からない。大体、情報が少なすぎる。だが確実に、信夫に対して、
律子は何らかの接近は感じていた。それが肉体的なものにせよ、心情的なものにせよ。
「……さをりさんとの馴れ初めは?」
「もう良いよ、さをりのことは……俺も落ち着いたし」
「聞かせて。無理にとは言わないけど」
背後から彼女を抱き締め、母親にすがる子供のように、彼女の背に顔をうずめていた彼は、
しばし沈黙したが、やがて、静かに語り出した。
「……初めて会ったのは、公園だった。雪の日の、とても寒い夕方で……他には誰もいない、
 コバルトに沈んだ雪景色に、彼女がたたずんでいた」
「それで……?」
報酬を与えるように、律子は彼の手を愛撫した。
「彼女はとても寒そうで……でも、ずっと立ち尽くしていた。頼りない、儚げな雰囲気で、
 通りがかっただけなのに、目が離せなかった」
「声を掛けたの」
「じっと、雪の上を見つめていたんだ。何かを探しているみたいに。だから歩み寄って、『何か、
 落としたんですか』と訊いてみた。『あれがないと、帰れないんです』……彼女はそう言った。
 でも、顔は上げてくれなかった。途方に暮れたように、ただ雪の上を見つめて、その白さに
 取り憑かれて、目が離せないように。瞬きも忘れたみたいに。――『一緒に探しましょうか。
 ……家の鍵ですか』と訊くと、『見つからないんです。ずっと探しているのに、どうしても
 見つからないんです』と、囁くように呟いて。『何を落としたんですか?』と改めて訊くと、
 その時 ……初めて、彼女が顔を上げた」
律子は眼を閉じ、背後の信夫の首筋に、腕を絡めた。何故なのか、熱いものが、じわりと
這い上がってきて、指が冷たい場所を探し、彷徨う。
「……何て答えたの、彼女」
「彼女は……ずっと奥まで澄んだ、深い、静かな湖みたいな瞳で……俺を見て……」
そこで、何かをためらうように、信夫の言葉が途切れた。
「何て言ったの……何を探していたの?」
(じ)れたように律子は身を翻すと、信夫を正面から抱いて、彼を急かした。
それに促されるように、彼は軽い溜息をつき、律子の耳元に囁いた。
「彼女は、『分かりません』と言ったんだ。自分が何を探しているのか、分からないと」
「どういうこと……?」
「分からないけれど、『何かとても大切なもの』を、なくしてしまったんだと言って。それがないと
 帰れないから、探さずにはいられなくて……けれど、見つからなくて。じゃあどうするのかと
 問うても、頼りなく漂う小舟みたいに、風に身を委ねているだけだった。無防備に。
 ……誰かがつなぎ止めておかないと、そのまま遠くまで、流れていってしまいそうだった」
手探りでたどり着いた律子の手が、彼の頬に触れ、指が、唇をなぞった。
彼の言葉に、未だ見ぬ女性の記憶の姿を、象(かたど)るように。
「それであなたは……」
「帰ることはない……帰れないなら。何もなくても、俺の所なら……君さえ良ければ……
 来ないかって」
「――童話のような物語ね、信夫」
ひとかけらの熱すら感じられない、汚れなき神話のような二人のエピソード。なのに律子は、
雪の精霊の化身のような、儚い美しさの女性・さをりのヴィジョンを思い浮かべることで、
胸の中に、何か熱いものが宿っていた。そっと灯り始めた焔(ほのお)が、宵闇に瞬く星のように、
微かな光を持ちながら。
「さをりは……何かを探していたけれど、それを見付けるのも、本当は怖かったんだと思う。
 だから……」
「……あなたを待っていたのね」
律子は、語り終えた彼に、そっと口付けた。



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