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Shinobu 1−



「あら佐渡方さん、今日もまた残業? 大変ね」
夜の十時を回って、まだ彼がマイラ(注・愛称。シリコングラフィックス社製)に向かっていると、
いつの間にか同僚の根上律子が背後に立ち、首の付け根に、ギュッと指を食い込ませてきた。
「……君の残業の仕方はワザとらしくないか? リッちゃん」
コリをほぐしてもらっているというより、かなり痛い。分かっているのか、ふっと笑うと、彼女は次に、
ギュッと首筋に抱きついた。
「『アイツらアヤシイんじゃないか』って? 良いじゃない……妬かせてやろうよ」
小さなデザイン事務所の紅一点は、勝ち気なキャリア・ウーマン。髪型は、彼の方が襟足が
長いくらいだが、かなりアクの強い、はっきりとした顔立ちなので、さっぱりとしていてよく似合う。
目元は、キツい感じがしないでもないが、口元は柔らかで、可愛らしくもある。
「ねぇ信夫(しのぶ)……最近付き合い悪いのね」
彼女は彼の恋人――ではナイ。
「あのね、律子……こういう言い方は卑怯だけど、僕は、君とは、」
「ア・ソ・ビ。の関係。でしょ? オトナだもの、割り切ってるわよ。そうやって誘ったのは私だし?」
「だから……」
流石にマウスを動かせなくなった。画面は、緊迫感のない『缶入り緑茶』のパッケージ。
“ほっと一服”なんて、ムードじゃない。
「あなたの恋人から、あなたを奪ってやろうという野望もないし。というよりは……罪悪感かな?」
律子の体が、彼の背に、子泣きジジィのように重く感じられる。
「愛してるんだもんねー。可愛い人なんでしょ? あたしとは、正反対のタイプ。
 あたしって、愛人に最高!」
「何言ってんだよ……ちょっと、重いぞっ」
不意に、耳元の囁きになった言葉。
「彼女のために、フリーのグラフィック・デザイナーになるの、諦めたんでしょ? 
 だからウチと契約したって。違う?」
瞬間、動きが止まる。
「……誰に聞いた」
「みんな口軽いんだから。特に、あたしにはね」
だから、男同士の酒の席でも、油断はできない。彼は、いつ口を滑らしたかを思い出すのは諦め、
ただ溜息。
「そうね……彼女って、真っ白なレースの手袋をはめているようなひと。――違う?」
律子が呟いた、そのあまりに的確な形容に、信夫は一瞬悪寒を覚えた。
律子は、彼が一緒に暮らしている女性のことについては、何も知らないはずだった。
そしてこれまでも、彼にそういう女性がいることを承知しながら一切無関心であり、
彼女の人となりについてなどを執拗に訊くようなこともなかった。
「何となく分かるわよ。だって……ねぇ」
不意に、その手が冷たくなったように感じ、彼の首筋の毛穴が強ばる。
「信夫さん。良いコトバ教えてあげる。『それはそれ、これはこれ』。
 ――罪深さも、重ねるほどに味わい深いものよ」
「……頼むよ」
脅迫されているわけでもないのに、彼女にはまったく歯が立たない。
勿論、律子も、二人だけだからこそ、こんな意地悪をするのだけれど。
「あれ、どうしたの? 首に……」
突然、うなじにかかった髪を、律子の冷たい手で、すっと上げられ、信夫はたじろいだ。
「だいったーん、キスマーク? 意外に激しい女性(ひと)なのね、彼女」
「違う、ぶつけた痕(あと)だよ!」
慌てて振り解こうと手を伸ばすが、素早いチェックに追い付かない。
「ホントだ。こんなとこ、どうやってぶつけるのよ。――何やってんだか。最近、小さな怪我が
 多いのね」
それ以上の詮索を拒んで、信夫は首筋を手で押さえた。

その夜、彼は零時頃に職場を出た。律子も、ただ彼のことをからかうのを楽しんでいるだけで、
実際は、そんなにしつこい女性ではない。彼はとても疲れていたし、多忙の上に、近頃は
プライベートな悩み事も付きまとい、いささか憂鬱な日々を送っていたから、早く帰って、
休みたかった。明日は明日で、また九時には出勤だ。通勤が小一時間程度だから助かって
いるが、今週は平均しても十四時間労働を遥かに超えているので、流石にキツい。
マンションに着いても、チャイムは鳴らさない。普段あまり外出をしない彼女が、朝から用事が
あって出かけると言っていたので、今日は疲れて、もう先に寝ているかもしれないと思ったからだった。
案の定、ダイニングの灯りはついていたが、そこには誰もいなかった。彼女が先に休む時は
大体、テーブルの上にメモがあるのだが、今日はそれも無い。余程疲れていたのだろう。
すぐ食が喉を通らなくなる質(たち)なので、ちゃんと食事をしたか心配になった。かく言う彼自身も、
今日はロクに食べていない。ダイニングの灯りを消して、そっとベッドルームの扉を開ける。
ベッドサイドのやわらかな練乳色のライトがつけてあったので、足下に危ういところはなかった。
彼の恋人は、ベッドの中で、冬眠するヤマネのようになっていた。それを横目に、クローゼットに
ジャケットを脱いで掛ける。取りあえず早く横になりたいという思いから、さっさと着替えて、
そっとベッドに滑り込む。よく見ると、彼女の雪のような素肌の肩が、漆黒の長い髪の下から、
切れ切れにのぞいている。どうも、着替える気力もなく、スリップのまま寝入ったらしい。
白でも黒でもないモーヴ・カラーのサテンが、神秘的な彼女には、よく似合っていた。
冬とはいえ、まぁ部屋の中は大丈夫だろうからと、彼はそっと彼女の肩に毛布を掛け直して、
そのまま寝かせてやることにした。その侵しがたい儚さに触れることなど、とてもできない、というように。
「……おやすみ」
そっと前髪に口づけして、ライトを消した。これからひととき、静かな安息が迎えられる。

不意に、彼女の指が、信夫の肩先に触れた。起こしてしまったのかと思ったが、彼女はそのまま
何も言わない。薄闇の中で、彼女の微かな気配が動くのが分かる。その指が次第に首筋に
降りてきて、ぐっと腕が回されたかと思うと、唇が押しつけられた。普段、絶対にそういうことを
する女性ではないので、信夫は困惑した。気持ち悪いということはないが、彼女らしくなくて。
闇の中ということもあって、隣にいるのが本当に「彼女」なのかという念が、一瞬、彼の胸を過ぎった。
そして、思い当たることにハッとして、彼女を引き離そうとしたが、時、既に遅かった。
「つっ……!」
信夫の両手が彼女の肩にかかった瞬間、彼女の牙が、彼の喉に突き立った。
「や……め……」
引きつけを起こした子供のように、もの凄い力。このままでは喉を噛み切られるという危機感が、
彼を襲った。
「やめるんだ、さをり……!」
彼は、顔の見えない彼女に向かって叫び、その力が一瞬弛(ゆる)んだ隙に、力任せに扱えば
壊れるに違いないような華奢な腕を、ぐっと押さえ付けた。首筋の血管が、うなりをあげている
ようだった。そこから脳髄の辺りに、どす黒い痛みが走っていたが、とにかく彼女のことが先決だ。
手から力が抜ければ、もう心配はない。短い息をついて、ライトに手を伸ばす。
「さをり……大丈夫か?」
どちらかというと「大丈夫か?」は、自分の方なのだが、髪を乱したまま、ぐったりとしている
彼女を見れば、状況的には、こうなる。
「さをり……俺だ、分かるか」
長い睫(まつげ)が、微かに震えた。わずかに上気した肌から、彼へと伝わる熱。それが急速に
冷却されて、総毛立つような緊張に変わる。やがて彼女は、片手をついて起き上がった。
しばし、凝然と見開かれる眼は、空(くう)を彷徨(さまよ)う。
「――信夫……私、また……?」
光に透けるような白さの肩が震え始めて、彼はそれを抱き寄せた。
彼女の冷たく細い腕が、力無いなりに精一杯の力で、彼にすがった。
「どうして……どうして、私、何を……!」
「良いから、良いから落ち着くんだ、とにかく……」
彼は、自分自身にもそう言い聞かせるように、繰り返した。だが彼女は、宵闇に独り取り残される
ことを恐れる子供の幼気(いたいけ)さで、藻掻いた。
「信夫……逃げないで、お願いだから、私から逃げたりしないで……!」
「分かったから、大丈夫だから……」
さをりが取りあえず落ち着くまで、一時間以上はかかった。その間、彼はずっと、彼女を抱いて。
――結局その夜は、ほとんど眠れずじまいだった。



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