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Ritsuko 2−




愛された記憶の希薄さ。それが彼女の存在に不安を与えている、一番の要因かもしれない。
探せばあるのかもしれない。けれど、まったく無かったかもしれない。その真相に近付くことへの
不安、そして怯え。彼女の恐れは、「終わってしまうこと」というよりも、何かに「たどり着いて
しまうこと」にあるのではないか。律子は、そう感じていた。
「最後のピースだけになったパズルを見ると……怖いんです。それまでは、無心に空白を埋める
 ことに没頭しているのに、不意に怖くなるんです。何処かで、同じものを見た気がする……
 そう思って。だから壊してしまうけれど、また作り始めてしまう。そうせずに、いられないんです」
独りの時間を埋めずにはおれない、冷え切った孤独。癒されない、漠然とした哀惜。
空白を空白で埋め、やがて自らの存在までも希薄に、真っ白な闇の中に消え入ってゆくような
妄想に、脅かされる。何かを抑制するあまり、自らの意識そのものを押し殺し、空白に支配
されようとしている。一点の汚点もない白さは、人の心を誘(いざな)う。解放と、無思考、
その両義的な結末を孕んで。
「――これを、もらっていただけますか」
彼女が、小さく握られた手を差し出し、律子は反射的に、片手を開いていた。
そっと、手のひらに置かれたのは、白いパズルの一片。
「これは……」
律子が、ほんのわずかな、しかし吸い込まれるような白さの、その一かけを見つめる。
何もない、その代わりにすべてを映し出す色。
「本当は、あのひとに預かってもらうべきなんだと思います。でも……あのひとは、私を怖がって
 いるみたいだから。――無理もないんです、彼のせいじゃない。私がいけないんです。
 私が……自分のことも信じられないような女だから」
「どうしてそんなことが分かるの。あなたが悪いだなんて。始まりはあなたにあったとしても、
 彼次第で、もっとあなたが苦しまずに、良い方向に行くこともできたかもしれないじゃない。
 ……大体、自分を信じてる人間なんて、本当にいるのか分からないわ。単に、今まで疑った
 とがないだけで、自分の抱えてる矛盾に目を瞑って、やりすごしているだけかもしれない」
律子の言葉に、彼女は何も言わず、ただパズルのピースを載せた律子の手を、そっと包んだ。
「私は、もうそんなに長く、彼とは一緒にいられないのかもしれません。その時が来たとしても
 ……私は、彼を大切に思っていたいんです」
「欺瞞だとは思わないの」
「それでも……人には、なくしたくないものがあるでしょう? 真実よりも、偽りが人の生きる
 支えになることだって、あるとは思いませんか」
「……本当に、良いの? 私が、これを持っていて」
律子は、ぎゅっと手を握りしめた。彼女は、静かにうなずいた。決意というほどのものは無く、
ごく自然に。だから律子も、そっと溜息をついた。
「……そうね。何が真実で、何が偽りかなんて、神のみぞ知ることで、あたしたちの手には
 負えない事柄だわ。だったら、大切なのは答えじゃなくて、それを選択する意志ね」
昼下がりの、何ということはない一時。だが律子にとっては、自分が神々の寓話の中の
一節に迷い込んだような時間だった。
雪色の、人魚姫。その足で立つだけで、刃物の上を歩くような苦痛を堪え、それでも愛するために
現世に生きようとする、童話の中のヒロイン。律子は彼女に、そんなイメージを持った。
儚く、哀しい予感に震え、運命の波に抗おうとしながらも、その力を持たないか弱さで、
傷だらけになっても尚、この世に留まることをやめない、殉愛の物語。遠い過去に聴いた
調べのように、不確かに重なり合い、響き合う思い。記憶の空白に、引き込まれるように。


* * * *


「リッちゃん、なに、生理休だってー? どうしたんだよ、タンポン買い置きなかったのか?」
「そーゆうセクハラ、やめてくれる? 殿方には絶対に理解し得ない苦しみに耐えてるんだから」
翌日の会社では、大して律子の欠勤に興味を持つ者はいなかった。からかわれるのにも、
紅一点だから、慣れている。
「律子、昼飯、行かないのか」
十二時をとうに過ぎても、彼女がいつまでもデスクに向かっていると、信夫がやってきた。
「どうぞお先に。あたしは今日は良いわ」
「……どうしたんだよ」
「何が」
ディスプレイから目を離さない彼女に、信夫が不審そうに、
「律子……この間あったのって、確か二週間前だったろ。早過ぎやしないか?」
「二ヶ月無い方が良かった? そうなったら、あなたどうしてくれるのかしら、佐渡方さん」
「何だよ、その言い方……」
とげとげしい言葉に、信夫はたじろいだ。律子は気を遣う素振りもなく、
「そういう質問はセクハラなのよ、信夫。それとも、他の男としけ込んだんじゃないかって、
 訊きたいの?」
「そんなつもりないよ。……どうしたんだよ、妙に突っかかるなぁ」
「殿方には到底理解し得ない現象なのよ、佐渡方さん。他の人に見られると鬱陶しいことに
 なるから、勤務時間帯は気をつけて頂戴」
「もう、みんなメシに行っちまってるよ」
「第一陣が、そろそろ帰ってくる頃じゃない?」
「律子……」
信夫が顔を近付けたところに、律子がスッと手で静止したのが早かったか、入り口の気配を
察知したのが早かったか。
「ほら、ご帰還よ」
やむなく、信夫も退かざるを得なかった。
信夫がやっと離れると、律子は一息ついた。さっき帰ってきた同僚が通りかかり、
「あれ、リッちゃん、昼は?」
「うん、あたしはもう良いの」
「貧血で倒れるなよ〜。今日は三日目か?」
またまたセクハラ発言に、相手の腰をグーで殴る。
それも通り過ぎると、律子はもう一度溜息をつき、煙草を一本つけた。

それまで、信夫の口から一方的な話でしか聞いていなかった間は、「生きて動く」一人の
女性としてのさをりのイメージは、律子の中にわかなかった。ただひたすら繊細で、美しい影
のような、想像で思い描いた理想の女性のように現実感の無い、夢の中の女性として
感じられていた。だが、実際に出会ってみて、それが随分と変わった。確かに、容貌などは
信夫の言葉通りだった。けれど、如何に人の言葉が、物事の本質の、ほんの限られた部分しか
伝えられないものなのかを、律子は果てしなく感じた。それは言葉の限界であったのか、
それとも信夫という人物の、さをりに対する理解の限界であったのか。そこまでは分からないが、
それを分かって、どしようという考えも無かったから、律子はただそれを思い、感じた。



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