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4 ・ 前編



聖母マリアの『処女懐胎』をどう思うかと尋ねられれば、まず私は、
破瓜の痛みを経ずに、出産の激痛とだけ出会うということに、
不思議な感覚を思った。『処女喪失』は、いわば『女』が『母』という、
『生む性』の体へと変化する、イニシエーションなのではないか。

                      《I’ve》 八号コラムより



或る夜、私は幸世を訪れた。敷島さんが一週間程、出張で留守にするので、いつものように、

一緒に食事を作ったりするために。

「あ、いらっしゃーい」

ドアの向こうから、幸世のすんなりと高い声が返り、ドアが開けられた。

「お邪魔しますよっと」

私はマンションに上がると、幸世が少し、足を引きずっているのに気付いた。

「足、どうしたの幸世。また転んだの?」

また、というのも酷い言い方のようだが、知り合った頃から幸世は、ちょっと何かが有ると

つまずいたりして、すぐ小さな怪我をする子だった。

「あ……うん。今日、音楽教室の子と遊んでたら、コケちゃった。あはは」

幸世は振り返ると、十年来変わらぬ、少女のような笑みで肩をすくめた。

音楽専攻だった彼女は、卒業してからは音楽教室の講師をしていた。

「もう……気を付けないと駄目だよ? クセなんだから、あんたは。ばーさんになると、それで

 ポキッといっちゃって、寝たきりだからね」

「うん、だから毎日にぼしパウダー食べてるよ。フードプロセッサー買ったの、通販で」

何だかズレているのだが、ムキになる雰囲気でもないので、私は下げていた買い物袋を

テーブルの上に置いた。

「じゃ、今日は私が全部作るから。幸世は座って見てて」

「え、良いよ、手伝うよ」

「良いのっ」

そう言って私は、壁にかかっていたエプロンを取った。相変わらず幸世らしい、可愛らしい

デザインのレースで、私が着るのは気恥ずかしい。幸世はニコニコして、生成のロング

スカートの上に手を重ね、テーブルの横の椅子に、人形のように座っていた。

今時、そんな形容を使う者は誰もいないだろうけれど、幸世は、ルノワールの少女にも似た

印象を与える。やわらかで、清楚な色調の絵画のように。

「そうしてると、かれんの方が、ずーっとお嫁さんみたいだよ」

「マジ?」

「うん。私よりお料理上手だし、経済観念発達してるし。凄いなー」

「ビンボーすりゃ、誰でも堅実になるって」

幸世は、毎日が満たされているようだった。子供好きな彼女は、ペイはあまり良くなくても、

仕事場の音楽教室が気に入っていた。多くの子供達に囲まれ、日の光あふれる部屋で

ピアノを弾く彼女の姿が、私には見えるようだった。

「敷島さん、ちゃんと毎晩電話くれてる?」

「うん。毎日詰め込みスケジュールできついみたいだけど、何とかやってるみたい」

振り向かなくても、口元が微笑んでいるのが分かる。それを思うだけで、私の中に快感が滲んだ。

彼女から夫についての不満は、ほとんど聞いたことがない。

些細な喧嘩はよく有るが、それは学生の頃からのことだった。

二人は本当に仲睦まじい、溜息の出るような甘さの夫婦だった。

生活臭など感じられない、平穏な森の奥で、いつまでも幸せに暮らす、

絵本の中の主人公達のように。



食事が済むと、私はまた、「良いから良いから」と幸世を座らせ、後かたづけをしてしまった。

そして、それも済ませて戻ると、幸世は麻のラグのかかったソファーに凭れて、ウトウトしていた。

元々そんなに体力のある有る方ではないので、今日子供達と遊んだというし、疲れたのだろう。

私はそれを一目見て、ふっと微笑した。

起こすのも忍びないが、起こさないのもまた、後で私に恐縮する。

「幸世、風邪引くよ」

私は、横にあったグレイのショールをそっと取ると、彼女の隣に座った。

「あ……ごめ、居眠りしちゃった」

「疲れているのは、働き者の証拠」

私はショールを幸世に掛けながら、そっと彼女を包むように抱いた。

「気持ち良い……」

幸世は、私の肩に頬を寄せ、まどろむような姿勢のまま、じっとしていた。

「幸世……体には気を付けないと駄目だよ? あんた、すぐ風邪引くし。いつも『大丈夫』

 とか言うけど、実際に風邪引いたら、一緒に暮らしてる敷島さんが心配するんだから」

「うん……分かってる」

私は、トン……トンと、子供をあやす時のように、彼女の肩を軽く叩いた。

幸世の栗色の髪が、私の頬をくすぐる。それすらも子供の悪戯のようで、私を微笑ませた。

「――有り難う、かれん」

「……え?」

幸世の呟きに、私は眉をひそめた。彼女は眼を閉じたまま、私の肩に凭れたままだった。

「かれんってさ……昔から落ち着いてて、周りのことが、どうしても見え過ぎちゃうから……。

 凄くひとに気を使ってるのに、でもそれを気付かせないさり気なさで、色々してくれて。

 ……それって、なかなかできないことだよね」

私は、そっと息をひそめた。

「かれん……」

「……なに」

声が震えないように、思い切り喉に力を入れていた。

「私、十年前どころか、小さい頃からちっとも進歩しないトロい子だけど、昔はそれで、

 何にかけても心配で、不安なことが多かった。でも今は、何も不安じゃないよ。

 どんなことでも……かれんと、順志さんが居てくれて、独りじゃないから。心配なことが、

 全然無くなったってわけじゃないけど。……大丈夫だって、信じられるようになった」

私は、そっと幸世の髪を撫ぜた。狂おしい程の愛しさで。

……どうして、こんなにも愛おしいものがあるのだろう。

胸が詰まる程の思いは、責め立てるように募るばかりで、行き場所が無い。

「……そう。良かった」

呟くと、幸世から、溜息のようなものが漏れた。微笑だろう。

――この笑みのためになら、何をしても良い。逆上のような思いが、私の体内を駆けていた。

その感情に震える心を、異様なまでの冷静さで傍観する私も、また居る。

「愛してるよ……幸世」

私は、幸世の前髪に、そっと口付けた。



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