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4 ・ 後編



カミソリの刃を、少しずつ握りしめてゆくような、この感触は何なのだろう。

残虐な悦び、臆病な好奇心、それとも妄想。畏れるような、待ち焦がれるような痛み。

何かが熱く、何かが冷たいものに変わりゆこうとする瞬間。



幸世への愛しさが激しければ激しい程、私の内にそれを疑問視する思いが生まれた。

あまりのその激しさが、却って偽善的なオーバー・アクションであるかのように感じられた。

……何かを、偽りを覆い隠すためのものなのではないのか。

それは、私が感じる幸世への感情そのものに対する疑念だった。

激しさなど、何の証拠にもなりはしない。自分では、それが愛しさだと信じているだけ。

幾度となく陥ってきた困惑。私は本当に幸世を愛しているのか。

時には敷島さんのものである幸世だから、そして幸世の敷島さんだから欲しいだけでは

ないのかと、とめどない渦が巻き起こった。そして、もし私の思いが純粋な愛情だったと

仮定しても、それはずっと変わらぬままに来たのか。フェティッシュな思いから始まった

敷島さんへの感情は、実際に触れるごとに深まってはいないのか。私は、実体としての

敷島さんの体には、執着していないはず。けれど――私は何を、誰を愛しているのか。

本当は何が欲しいのか。愛という言葉を、こんなゆがんだ感情に使っても良いのかという迷い。

「そんなものは、ただの独善的な欲望だ」という声。

それに糾弾されたとしても、私自身が何か変えられるのか。

私は既に、自らの破滅的な愛情に酔い、その毒で均衡感覚を失っている。

……それも、私自身が動かない限り、どうにもならない。


おそらく一番畏れていたのは、私が愛しさと同時に抱いていた、あの苛立ち。

何故そんなものが併存するのかが、分からなかった。私が幸世を大切にするのは単に、

幸世のような人物を愛する自分自身の姿を、愛しているからではないのか。

或いは、幸世の中に美化された自分のイメージを愛して。――結局私は、自分自身しか

愛していない、幸世のことは、単に利用しているに過ぎないのではないか。

あの激しさはそのまま、私の自己愛の陰画でしかなくて。でなければ常識的に考えて、

幸世と敷島さんと、あんな関係を続けられるはずがない。

だとしたら……私は、何をしてきたのだろう。

困惑が、迷いを増長させる。


安積君は、私の『密室』の正体を知っている。

自分にとってだけ都合の良い、欺瞞で構成された閉鎖空間。

私がそこへ閉じこもろうとする欲求を知りながら、彼は決して、私と共にその境界に

踏み入ることはしなかった。一緒に暮らしていた時でさえも。

知っていたからこそ、なのだろう。私もそれを分かって、彼は自分が抱き込めるような

人間ではないことを感じて、あえて試みることはなかった。

その抗しがたい魅力に満ちた妄想の空間は、禁断のまま、実現は見なかった。

けれど、敷島さんは……。



愛する幸世の夫である敷島さんと通じ、巧妙なトリックで、「これは裏切りではない」と

彼を惑わし続け、夫婦の自然摂理をゆがめた私の罪状は、小さな傷を隠すための、

想像を絶する裏切り。幸世のためとか敷島さんのためとかは、大義名分にも言うつもりは

なかったが、結果的に私は、自分の妄想を具現化させるために、この愛する二人の運命を

玩んでいる。私が触れて良いような領域を遥かに超えた場所にまで手を伸ばし、

思い通りの型にはめようとして。

夢、理想、妄想……何とでも呼べる。それが私の愛し方なのだろうか。

そんなことが許されるはずはないのに。何故、それでここまで来られてしまったのだろう。

私は何を、誰を愛しているのか。それすらも見失っていたのかもしれない。

私が心に描いた絵は、本当に存在していたのか。本当は、何が欲しかったのか。

欲しかった……?

私は、自分にとって不必要な敷島さんの欲望を、あの密室に閉じこめようとしていた。

彼の……? 

『愛』、それとも、『欲望』。

私も結局、あの不毛な迷路に囚われ、そこから一歩も出てはいない。

すべてを包摂し、無限の許容があるはずだった、私の造り出した空間。

あの密室に迷い込んだのは、彼の『欲望』ではなく、私自身の――



* * * *



夜風の吹き抜けるプラットホームで、新幹線を待つ者はほとんどいない。

やがて、闇の向こうにキラリと光が映り、それがゆっくりと、近付いてくる。

立ち尽くしたまま、私はそれを、自分に向かってくる魔物を見据えるように、じっと見つめ続けた。

そして白い車体が、滑るように目の前を行き過ぎ、冷たい風が狙いを付けて、私の足下を

すくいながら突き抜ける。

そして人の波があふれ出し、私は逆らわぬよう、するりとその間をすり抜けながら、待ち続けた。

必ず、見つけられる。……そう、確信して。



ひとしきり続いた人のうねりも過ぎ去った頃。私は、彼の姿を見つけた。

黒いアタッシュケースと、紙袋を、それぞれの手に持って。

私は、カツ……と、一歩ずつ歩み始める。彼は、まだ私に気付かない。

やっと気付いたのは、あと一歩で彼の目の前に立つという、その時。

「……かれん?」

ふと、目を上げた瞬間。何故――という言葉が出る前に。

私は、両手がふさがったままの彼を見上げ、そのまま答えの代わりに手を伸ばすと、

その頬に触れた。

「……お帰りなさい」

そして、恋人のような抱擁。……それは、私と彼の禁忌。


その時――私の目には、彼の背中越しに、ライトに照らされた、

赤い煉瓦の壁だけが見えていた。










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