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3 ・ 後編



「痛っ……!」

突然、安積君が私の右手を掴んだ。別に、強い力だったわけではない。

私は眉をひそめたが、次の瞬間、ハッとした。

彼が触れたのは、手首の内側にある、青黒い痣(あざ)


――私には、軽い自傷癖がある。過重なストレスで追いつめられると、

痣になっても人目につかない手首の裏を、辺りに何度と無く打ち付ける。

痛みが快感なのではなく、それによって精神的な苦痛が、一瞬でも真っ白になることが、

麻薬のように待ち焦がれられるだけ。

それを繰り返し、衝動的に刃物を持つこともあるが、深い傷をつけることはない。

死に逃れたいのではなく、ただ瞬間的な肉体の激痛で、精神の痛みから逃れ、

あくまで現実に戻ろうとするからだ。


「『聖三位一体』……ね。実践したニーチェは結局、発狂した」

彼の呟き。目が合っても、私は何も答えられなかった。

私の陰惨な自傷癖のことを知るのは、彼ひとり。



確かに、もしかすると彼が一番、私という人間には合っていたのだと思う。

彼程に、感覚的にストレートに私を受け入れられる人は、きっと他にはいない。

私が初めて男と女の関係を持ったのは、彼だった。

「別れた」わけではない。ただ、いつの間にか愛し合ったように、決してお互いを束縛せず、

恒常的な関係が成立しなかった。

今でも私は、何物をも束縛しようとはしない。

それは、それに伴う責任をも、負おうとしていないということだった。

エゴイスト――それがすべての答え。

壊れることが怖くて、確かめることをしない、求められない私。

彼は、私のそんな幼稚さも知っていた。決して口にはしなかったけれど。

そして何よりも私は、あまりに愚かすぎる。

彼が私を「変わっていない」と言ったのは、そういうことだった。

彼は、そっと私の手を放した。

私は、これまで何度も、この「ためらい傷」を彼に気付かれることで癒され、また、傷ついてきた。

彼は、皮膚一枚を切った痕に滲んだ血の色に魅入られた私のことを、理解していた。

私は彼に癒されることに安らぎを覚える一方で、自分が無防備になるようで、そのことを畏れた。

そしてまた、プライドの高さが、それを許せなかった。

自分を救ってくれる彼の存在自体に傷ついてしまう。

強すぎる自意識は彼を、安らぎであると同時に、苦痛となる存在として認識してしまう。

私の傲慢さ不遜さは、彼に癒される自分の弱さと、自分を癒やせる彼の存在を受け入れられず、

耐えられない。私は自分で自分の傷を広げ、そして的外れな自尊心で苦しんでいる。


私は、いつも予感していた。このままでは、いつか自分は罰される。

精神的な不安定さからも、その危険を感じていた。

だから、だからこそ、失ったらきっと気が狂うかと思われる程に、深く愛するものを持ち、

ブレーキにしているのだと思った。けれどそれを、私を縛り付けるものを打ち壊してしまおう

とする衝動は、幾度となく襲ってくる。その紙一重の均衡の繰り返し、せめぎ合い……。

全身がバラバラになりそうな衝動。

そんな自分で、いつまで居続けるのだろう。まるで、その茫漠たる荒廃に至った精神の痛手を

埋め合わすために、一方的な愛情におぼれるように。

私は、自分のエゴのために、あの二人を、向き合うべき現実からも遠ざけてしまった。

そして今も、それぞれから現実という世界を隠して、何とかそれで収拾をつけようとしている。

そんなことが、できるのか。迷い、悔恨が無かったことはない。けれど未だ、その弱さを認める

ことはできない。『私』を変えられない。



“「まだ大丈夫、この程度なら何とかなる」と思って流している血も、いつか本当に止まらなくなる。

 ……佳村自身だけでなく、佳村が大切にしているものも巻き込んで”



いつか彼は、そう言った。ただ淡々とした、あの口調で。


“――そんなこと、絶対にさせない”


私は静かな、けれど押し込めたような強さで言った。

彼は、私を見つめていた。その眼に映る迷いもまた、きっと。


“……それなら良い。そう思っているなら”


その時――その穏やかな眼差しの向こうにある、語られなかった言葉まで、私には

聞こえたような気がした。「本当に」……そう思っているなら、と。

それは、まだ私が、あの『密室』を作り出す前のこと。



「……クリムトか」

唐突な彼の呟きに、うつむいていた私は目を上げ、自分の手元に出ていた手帳を見やった。

「あぁ……そう。クリムトの『接吻(キス)』。モネとかボッティチェルリとか、ムンクの絵柄なんかも

 あったんだけど……」

私は、その黄色を主体とした、明るい、なのに何故か儚さを感じさせる不思議な絵を、

見つめ直した。すると、口元からこぼれるように、自然に言葉が出てきた。

「この絵を見てね、或る人のことを思い出したと思ってた。その人が ……クリムトの画集を

 持っていたから」

優しく、融け合うように甘美な記憶の後ろ姿。

『彼』の腕は私を抱き、私もまた、『彼』を抱いている。

『彼』の顔は……見えない。そして私も、夢みるように、目を閉じている。

泣きたくなるような、切ない懐かしさが、胸をうずめた。

「でも……違った。その人じゃないって、気付いたの」

何ということはないモノローグ。けれど彼は、黙ってそれに耳を傾けていた。



――「あの人」ではないと気付いた時。

体の中を、冷たい風が吹き抜けるような寂しさを感じた。

そして今、それが今、誰であったかに気付き、また、寂しさを覚えた。

自分の愚かさばかりが、私を凍えさせていくのだと分かって。

ふと目を上げると、彼が静かに見つめていた。

……何故だか不意に、目が潤んだ。



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