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3 ・ 前編



スカしたツラでセクシュアリティについて明け透けに語る私に、よく、
「あんたにだって肉欲は有るんでしょう?」と訊く方がいらっしゃる。
その問いの意図は様々であるが、実は自分は、あまり肉欲を
感じないタチで、せいぜい生理前くらいしか発情しない、極めて
ケダモノのような女である。これは何も、威張るようなことでも、
人に言うようなことでもないが、寧ろ私にとってはコンプレックス
に近いことだった。他人を求める心が薄い、愛そうとしない……
つまり、自分はエゴイストなのだと感じ、昔はよく落ち込んだ。
しかし、まさにその通りなのだろう。
                       《I’ve》 五号コラムより



「……何か、疚しいことしてるな、佳村」

しばらくの間、仕事や最近興味を持っている話題に興じた後、おもむろに彼は私に言った。

私は傾けたグラスを、唇から離した。カラン、とロックアイスが鳴る。

「何が?」

私は、何食わぬ顔をして訊き返す。彼は、くしゃっと笑うと、

「知らないけどさ」

少年のような顔になる一瞬だった。カマかけているのではない。それは分かった。

彼は、ナリこそヨレてはいるが、不思議な清潔感のある人物で、その言葉に対する邪推など、

私はしたことがない。彼は、そのままの口調で、

「マエよりずっと、『女』になってる」

自分で意識したことはなかったつもりだが、私の何処かに、『男』の匂いを感じ取ったのだろう。

そんな彼の言葉に、私はふっと笑って、

「そう。不倫してるの。しかも、友人のダンナと」

特に、驚きも何もない。先刻までの話と、全く変わらぬペースでの会話だった。

「私、変わったのかな」

「変わってはいないはずだよ」

「どうして分かるの」

珍しく、私は挑発するように、くいっと彼のグラスを向側から引き寄せた。

彼は穏やかな、柔らかい物腰で、そっと私のグラスを取った。

「自分が一番、分かってるんじゃないか。変わってたら、こっちに来てるだろ」

「あ……酒が足りてないな。ズブロッカもう一杯」

私は、深く息をつくのを隠すように、彼のグラスに注ぎ足した。

どうせ、多くを語らなくとも、彼には色々と分かってしまう。

彼は、私と幸世達の関係について、直接のことは知らないが、大体のことは理解していた。

自分でも狂気じみていると思う、あの感情についても。



――私は、あの一件以来、幸世と敷島さん夫婦が、セクスレスになっていったことに、

気付いていた。幸世の体の問題で一時期そうなって、そこから元に戻る切っ掛けを失い、

そのままになってしまったのだろう。かといって、幸世に対する敷島さんの愛情は、

少しも損なわれはしなかった。勿論、それに納得していたというよりも、幸世を傷つけたくない

という思いの方が、まだ勝っていたからだろう。

その状態を察した時、私は慄然とするものを感じた。

この二人は、まさに私が望んだような、理想的な夫婦に近付いていく、と。

ゆがんだ恍惚が私を包むのが分かった。

一般的には夫婦の危機とされるような現象も、私にとっては、夢にまで見た『聖家族』の完成

そのものだった。

しかし、彼に欲望が無くなったわけではない。私は、それを否定しはしなかった。

幾ら自分の理想の実現のためとはいえ、彼から肉による癒しを奪うことはできないと、

それを強いるのは酷なことだと分かっていた。

それでもやはり、幸世には触れてほしくなかった。かといって、他の女に出来心で傾いて、

彼の心が幸世から離れるようなことになるのも、許せなかった。



そして私は、彼が、私の望む形で幸世を愛してくれるように、私にとっては邪魔な、

彼の欲望だけを自分の中に、すべて取り込もうとした。

それを私から幸世への愛情という形で環流させれば、矛盾はない。

そんな、ねじれ曲がった理屈を、自分の中で押し通すことに、熱病のような思考で納得し、

それを彼にも押しつけた。彼と快楽を貪ったとしても、絶対に幸世を傷つけないことを

命に代えても貫けるのは、私だけ。彼と寝ている時でも、私にはあの夫婦が清らかな愛情を

育む姿を夢想し、それに酔っている。それは、異性との交渉でありながら、実際には自慰行為に

過ぎないのかもしれない。三人の愛が均衡して結びつきを深める、「聖三位一体」への幻想。



“――決して幸世を悲しませないで。私、あの子を愛してる。 もし幸世を傷つけたら、

 あなたのことも愛している分、きっとあなたを赦(ゆる)せなくなるから。”



それが、私と彼の関係を繋ぐ約束。


心が疲れ、何故こんなにも幸世を無条件に愛するのか、自分が分からなくなる時も有る。

愛しさが、私の胸を押し潰すように迫ると、苦痛とすら感じられる時がある。

愛しい程に、それは私を縛り付け、私は逃れたくなる。

すると、何もかも打ち砕いて自由になりたくなる。

……だが、幸世と会うと、やはり私は、盲愛の言葉そのままに、その軛(くびき)に自ら

繋がれることを選んでしまう。それはその実、自分のためにすることなのだが。

ただ、どうしようもなく募る愛しさ。

この一方的な、こんな自己中心的で自己満足的な押しつけがましい程の愛情の代償など、

求められるはずがない。だから、考えたこともない。

幸世が私を受け入れてくれる、ただそれだけで、私は代償を得ている。



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