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2 ・ 後編



「でもさあ、かれんのコラムなんか読むと、あそこまで考えちゃうと、もう恋愛なんて、

馬鹿馬鹿しくってできないんじゃないかと思うけど、どうなの?」

「馬鹿馬鹿しいなんて思わないよ。虚しくはなるけど」

「え、例えばどんなこと?」

「愛するっていうのが、何を愛しているのか、何のために愛しているのか……とか。

 何処までが愛情で、何処までが欲望なのかとか。くだらないこと考えて」

「ふーん?」

後悔しながら喋っていた。けれど真実の気持ちだから、隠すことではない。

それでも居心地が悪くなって、私はもう一回、今度はカプチーノをオーダーした。

「そう言えば……」

彼女は煙草に火をつけ、一服すると、私の方を見て、奇妙な笑みを見せた。

「この間、面白いこと聞いちゃった。かれんの大学時代の同級生ってコに会ったの」

大体そのテの噂で、ロクなものはない。特に同じ業界ならば、私がフリーになってから

相当ヤクザな暮らしをしていたという話には、かなりのオヒレが付いている。

「あなた学生時代に、もの凄い大切にしてたコがいたんですって?

 とっても可愛い女の子。学内でも有名だったらしいじゃない」

「今でも大切にしてるよ」

私はアッサリ言ってのけたが、それをガードの体勢と取ったのか、彼女は更に面白がるように、

「へぇー、彼女、今はどうしてるの?」

「ノーコメント」

「どうして? そんなこと言われたら、尚更知りたくなっちゃうじゃない」

「シャレにならないよ。あの子を失ったら、私は気が狂うか死ぬかすると思う」

決して厳しい口調ではなかったが、彼女はマジな返答に引きつった。お門違いを悟った

らしい。それでも気を取り直そうと、まだつけたばかりだった煙草を灰皿に押しつけ、

まいったように深く息を吐くと、テーブルの上の書類を揃え始めた。そろそろ、隣のビルにある

本社の方に、戻る気になったらしい。だが最後にまた、彼女は私に問いかけた。

「かれん、安積(あさか)さんと暮らしてたって、ホント?」

「……本当だけど」

安積篤は、学生の頃からの知り合いで、年は私と同じだったはずだが、浪人や留年が

入り乱れて、正確なところは忘れた。しかしずっと同じ専攻、同じライター志望で、

似たような境遇を経て、彼も現在、博学な知識をネタに、多彩な分野をこなすライターとして

活躍している。そして一時期、私は彼と一緒に暮らしていたことがある。

「本社から出てくる時、見かけたの。今、旅雑誌の方で仕事してるって聞いてたし」

どういうつもりで、どういう経路での情報だろうか。何にせよ、懐かしい名前を聞いた。

「そう……しばらく連絡取ってなかった」

「あの人も、何か不思議な雰囲気の人よね。だから、かれんと暮らしてた人だって誰かに

 聞いた時も、何だか判る気がしたんだ。何て言うか、自分の世界持ってるって感じ?

 ――どうして別れちゃったの?」

「別に……もともと私がフリーになったばかりで、ホームレス極貧生活してた時に、

 居候させてもらっていたから、いつまでもいられなかったってだけで」

丁度カプチーノが来たので、私は一旦、思考を停止させた。

真っ白に、空白に。そして、ガラスの向こうに眺める街の色は、暗く沈み始めていた。



私は、或ることについて思考するのを、意図的に避けていた。

自分のものの考え方は、一般的な条理も秩序も覆しているということ、とっくに破綻している

はずであるということ……みな気付いていて。けれど私は私なりに、自らの秩序という観念で、

その時々の直面する現実に、整合性を見いだそうとしていた。

私は、私が思い望んだ形での二人の幸せを、独善的な欲望に駆られて護ろうとしていた。

それまで私が払ってきた努力もみな、私の思い描く幻想の完成のためのものなのだと、

もう分かってはいた。けれど、それが私の愛なのだと信じてきた。

私は、愛情の名の下に、誰かを束縛することなどできない。

愛するという無限責任を果たすことに、自信がないからだった。

責任の充実感と引き替えの、倦怠という副作用。それを負うことなしに、私はただ、

身勝手に愛してきた。これまでも、今も。

けれどもし……もし、あの密室に封印した禁忌が、一歩でも外界へと出たならば、

そこは現実という法が支配する領域。裁きも報いも、そこに従わなければならない。



彼女が隣のビルに帰っていった後も、私はしばらくその場所にとどまっていた。

誤魔化すように一口だけ口を付けたあのカプチーノが冷え切ってしまうまで。

考え込んでいたわけではない。何も考えないでいただけ。

そんな私の無思考を打ち破ったのは、ポンッと肩を叩いた手。

「いよっ、佳村」

ビクッと背が痙攣して、ハッと見上げる。

「安積……君?」

ジーンズに、くたびれたシャツ。そして、無精髭。髪だけは、珍しくサッパリとしていた。

床屋に行ったばかりなのだろう。老けた学生のような姿に、思わず瞬間時間旅行。

さっき話を聞いたばかりだったから、幻覚のような感じがした。

「本社で、編集さんに会ったよ。なに、今は『めくるめく官能の世界をあなたに……』

 の系統の仕事だって?」

反射的に、ははっと情けない笑いがこぼれて、

「何だかねー。そんなんばっかよ最近。ごめん、ぜんっぜん、連絡してなかったね」

「いや、元気そうで良かった」

彼は、学生の頃から変わらぬ、気取らない仕草。向かいに腰掛けると、あごで示して、

「出しっぱなしにしとくなよ。ウェイトレスがビビってるぞ、さっきから」

「あ……忘れてた」

私は、仕事用に借りた女性向けエロソフトを、テーブルの上に置いたまま、

まだしまっていなかった。

「面倒くさー。男向けなら、『評価』ってたって、ヌケ具合を星4つとかで付けりゃ

 済むんでしょ? 女は感じ方がねぇ…何処が絶頂なのかも、よう分からんし」

溜息をついて前を見ると、丁度彼と目が合う。

「時間は?」

「無いって言ったら?」

「おれも一緒にエロの仕事手伝うよ」

「……ばか」

私は苦笑しながら、席を立った。



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