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1 ・ 後編



* * * *


私と幸世が出会ったのは、大学の入学式の日。もう、十年以上も前のこと。

自分とは対照的な、可憐、という言葉がまさにピッタリの彼女を、私は慈しんだ。

幸世も、私を心から信頼し、歯がゆい程のその純朴さは、私の苛立ちと愛おしさを

同時に奮い立たせた。あまりにも幼気(いたいけ)で、だから愛しくて。

それで危なっかしいから、いつも気になりすぎて息苦しい。

彼女の、この俗世間とは無縁のイノセンスを誰にも汚させてはいけないという

激情にも近い思いと、根っからの性善説で警戒心も危機感も皆無の幸世に対する

攻撃的なまでに激烈な叱責。

それはどちらも、まるでシンプルな公式の解のように当然に、私の中に生まれた現象で、

実際まったく区別がつかない程、渾然一体としていた。

その幸世と敷島順志を引き合わせたのは、私自身。

二人が結婚まで行くなんて、その時は想像もしていなかった。

フェティッシュなものとはいえ、彼は私の、密やかな想い人だったのだから。

それでも、二人が付き合い始めたと知った時には、何だか幸世の

兄か父親でもあるかのような、彼に対する奇妙な嫉妬が、私の中で疼いた。

けれど結局、私は二人の些細な喧嘩の仲裁をしたり、何かと間を取り持つようになっていた。

彼ならば幸世を任せても安心だという思いはあった。

そして何より、この二人は揃うと、まるでソフトフォーカスで捕らえた幻想的な写真のように、

柔らかで甘やかな香りを感じさせる構図になる。

それを見つめることは、私の新たな快楽となっていた。

おかしな話だが、私は幸世と敷島さんの両方を深く思っていたし、両方に激しく嫉妬していた。

私の大切な幸世に触れる敷島さんに。彼の、あの肩に凭れることのできる幸世に。

幸世は、私に甘えはしても、決して拗ねたりはしてくれない。

子供のように駄々をこねるのは、彼に対してだけ。

それは、幸世の守護者として付き添ってきた私のプライドに、耐え難い敗北の烙印を押した。

そして敷島さんが幸世を抱擁するのを見ることもまた、体の中をかき回されるような苦しみだった。

何故そんな思いをしても尚、私がこの二人から離れられなかったのかと問われれば、

それはやはり、際どい僅差で揺れる愛しさが、それと同等に存在していたからだろう。

全身全霊をかけて幸世を護ろうとする心の一方で、魔が差すように、「敷島順志」を欲しい

と思う瞬間は、確かに何度もあった。あまりに二人のことを思い詰めて、自分の中の感情が

何によって昂揚しているのか、何を欲しているのか混乱した。

本心なのか、戯れの夢想なのか、区別がつかなかった。

けれど、その混乱を現実に起こすことは、しなかった。

たとえ一時、彼を私のものにできたとして、今現在、私が幸世や敷島さんとの関係から

築き上げているものを超える何かが生み出せるとは、とても思えなかったからだ。

絵画や骨董品を望んで手に入れたとしても結局、その存在自体の価値に何ら影響を

及ぼせるようなことはない。有るのは、ただ「自分が所有している」という、姑息な自己満足だけ。

私はその虚しさ、程なく持てあますことになるだろう。「置いて眺めて思いを馳せる」――

それくらいで丁度良いのならば、そんな衝動でしかない感情は、動かさないに限る。

そうして心の中の悪巧みは、心の中だけにとどめられ、それは自己完結していた。

けれど、何の気なしに彼の手に触れる時も、そっと凭れる時にも。

私は人目を盗むでもなく、寧ろ大っぴらに、しかし何事も誰にも悟らせずに振る舞い続けた。

幸世のことにしても、時にはあからさまに、敷島さんに対して、挑戦的な態度で、

私は彼女を自分のもとに引き寄せたりした。私と幸世の間には、彼には触れられぬものが

有るのだと、誇示するかのように。

かと思うと、私は幸世と敷島さんの結婚準備の時に、幸世の代わりに彼と二人、新居に置く

家具の下見に行ったこともある。その時は、あたかも彼と一緒に暮らし始めるのは自分である

かのように、夫婦の新居に置く本棚を探した。周りにもそう目されることを承知しながら。

独り楽しむ秘密の空想遊戯で、幸世の信頼を欺くようなスリルに、ひととき身を委ねた。


そのように、二人の良き理解者となり、支えとなることを誓いながらも、心の何処かで常に、

裏切りの可能性は有った。それをあえて無理に自分で否定しなかったことによって、

その思いは抑制されたように思う。性懲りもない煩悩も、長い付き合いになると、

「どうせ本心ではないのだから」と、放っておくに任せた。

それに、やはり私にとって、二人は揃ってこそ、私の理想図であり、完成された

印象派の絵画だった。



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