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1 ・ 前編



或る男性誌が男性に対して、『女に生まれ変わったら何をしてみたいか』
というアンケート調査を行った。すると、『セックス』、『女装』などを抜いて、
何とトップに挙げられたのは『出産』だった。全体の約20パーセントにあたる
彼らは、なかなか崇高な精神の持ち主であるかもしれない。しかし彼らは、
『子を産むからだ』であるためには、妊娠から出産までの一年近くを、
不自由な身重の体で過ごすにとどまらず、その出産の後にも先にも延々と、
一年の約四分の一の期間を、『月経』という大量流血現象と付き合い続け
なければならないという心身の負担のことまでには、おそらく考え至って
いないであろうと思われる。
                             《I’ve》 三号コラムより



私が彼に惹かれたのは、「好き」というより、前世紀に描かれた一枚の風景画の

構図(ディテール)を愛するのに似ていた。

近くに在りながら、遥か遠くを見つめている気持ちにさせるひと。

直接触れられることはなしにも、そのフォルムから醸し出されるアトモスフェアに、

私は愛撫された。

だから、それをどうしたいというような思いもなく、ただ眺めるだけで心地好かった。

もっとハッキリと言うのならば、私は彼と寝たいとは思わなかったし、

まして彼を「奪う」なんてことも、一度も考えたことはなかった。

その腕、その肩、その背――そこに凭(もた)れたいとは思っても、それは彼の人間性を

愛したのとは、違うことだろう。

「鑑賞」という行為の持つ、あらゆる快楽を堪能させてくれる対象。

想像力の戯れを刺激する素材。

私にとっては、彼の「意志」など、どうでもいい存在だった。

そして、だからこそ私は、こうして彼に触れられていられる。

この、外界の秩序からは疎外された密室の内で。



もう春に近い宵だけれど、冬が名残を惜しむように人の温もりを慕い、冷気を運び込んでいた。

身じろぎもせず、淡いペパーミント・ブルーのブランケットに包まれた彼の姿は、

まるで水銀灯に照らされた雪に抱かれながら眠っているようだった。

そんな彼が、まどろみの中に居る間、私はずっと、ただボンヤリと、ほのかな灯りに夕暮れた

雪原を見つめていた。行く末の無い未来ではなく、漂っている今だけを。



――この部屋は、世界。それとも、宇宙。

昨日の在ったことを覚えていてはいけない、明日が在ることを思ってはならない場所。



私は、彼が起きている間は、決して眠れなかった。

大切なものと共に居る時は、いつも。幸世(さちよ)と居る時も、そうだった。

彼らが安らかに眠りに就くまで、私は目を閉じることができない。

悲しいことが起こらぬよう、できることならずっと眠らずに見守っていたいと感じていた。

それは、自分が負えない責任に対する、罪の意識なのかもしれない。

自信のない愛。この場所以外には存在してはいけない真実。

異空間に等しい、この閉ざされた世界に封じ込められた禁忌。

「……かれん」

不意に彼が、私の名を呼んだ。というより、呟いた。

「何ですか、敷島(しきしま)さん」

「君は……強いね。いつも」

寝言のような呟き。私は、私の空間にすべてを預けている彼の髪を、そっと撫ぜた。

「どうしたんですか。そんなこと突然」

やはり彼は、身じろぎもせず。

「幸世が羨ましいよ。君みたいな友人を持っていて」

めまいのような瞬間に、私は天を見上げ、深く息を吸った。

あの、自分を突き動かす衝動を押しとどめながら、予感するものに怯える感覚。

悪に魅せられながら、そこに触れるのを畏れる子供のように。

……私は、敷島さんが羨ましかった。そして、幸世のことも。

でもそれは聞こえない。心の中だけでの囁き。

そして私は、離れがたい倦怠と、ノスタルジアで。

「えぇ。私は強いんです。だから、人を叱ったり、甘やかしたりする以外、能がありません」

本当は、壊しているのかもしれない。それでも私は、この密室を作り出してしまった。

自分の内に、すべてを抱き込めると信じて。言い聞かせて。

「覚えてますか? 結婚式の時、私が敷島さんに、何て言ったか」

「……いや」

あの時彼は、酔って良い気分になっていたから、覚えていなくても無理はない。

私は、あの時と同じように、彼の耳元に囁いた。

「――『あなたがいなければ、幸世は私のものになったのに。

 ……でも、良いわ。あなただから』」

「そんなことを?」

二人共、静かに笑っていた。

視線は交わされず、お互いが幻の中にたたずむように。

「成田でのことなら覚えてる。『ケンカしたり、ちょっと腹が立って家にいたくなくなったり、

 そんな時は私のところに、いつでも家でしてきなさい、良い?』って。

 ……そして、僕の目の前で、幸世を抱擁した」

「そう。それも本当」

あれから五年が経つけれど、幸世が私に泣きついてきたことは、一度もない。

敷島順志(さとし)は、学生の頃と変わらずに、幸世にとって頼りがいのある、

良きパートナーで居続けていてくれたようだった。私が、そう望んだように。

彼は、私が彼を愛していることを知っている。分かちがたく、幸世を愛していることも。

……けれど、どのように愛しているか。それはきっと、知らない。そんなものは必要ない。

大切なのは、私、彼、そして幸世の三人が、互いに深く愛し合っていること。

たとえ、それぞれの愛が、その形も意味も、全く異なるものであっても。

もしそれを追求しようとしたならば、人はきっと一生かかっても、ひとつの愛にもたどりつけない。



彼を送り出した後にも、私は別れの余韻を味わうようなことはせず、すぐに鍵を閉めた。

そして、テーブルの上のコードレス・フォンに手を伸ばす。


短縮ダイヤル#1は、愛する彼女。


「佳村(よしむら)ですけど。あ、幸世? うん、かれんだけど。 何してた?

 敷島さん、まだ帰ってないんだ。そう……寂しいんでしょ? ははっ……」

私は、先刻まで彼が居た温もりの残る場所に横になり、そして彼女に、優しく囁いた。

それは奇妙な程、確信に満ちた口調に、深い慈愛を込めて。

「――大丈夫。……もうすぐ帰ってくるよ」



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