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4−



純子が訊くまでもなく、由利は語り始めた。感傷に浸るわけでなく、突き放すのでなく。

記憶に書き留められた文字の一字一句を、淡々と読むように。

「僕に家族は無くて、叔父が財産を管理していた。則文の父親がね。僕と繭子が婚約した頃、

 丁度、則文の姉も、結婚の話が決まった」

「則文の……?」

「どういわけか、その結婚を快く思わない人間がいたらしく、彼女のところにそれは酷い内容の

 嫌がらせの電話が来るようになったんだ」

「そんなの、相手の男の、別れた女か何かじゃないの?」

「そう考えるのが妥当だと思うが……彼らは、犯人は繭子に違いないと騒ぎ始めた」

「何でよ?」

「繭子の家が片親だとか、僕が相談もなく連れてきたとか、性格が合わないとか、

 元々気に入らないことが多かったのが遠因ではあっただろうけれど。いくらなんでも、

 それだけじゃない。僕も、その嫌がらせの電話の録音テープとういのを聞かされたけど、

 確かにちょっと声が似ていたんだ。勿論、別人だとは思ったけれど」

「彼女じゃなかったんでしょう?」

「第一、理由がない。けれど三文小説みたいに、嫌がらせはエスカレートしていった。

 刃物が送られてきたり、正気の沙汰とは思えない状況で、あちらもすっかり理性をなくして。

 僕にも、『このままなら警察に訴える』と言ってきた」

「……繭子さんはどうしてたの?」

「気丈だったよ。自分がそんなことをしなければならない謂われはないし、覚えもない。

 訴えるなら勝手にやれと。――それが益々、気に食わなかったんだろう。

 脅し文句のつもりで言っていた警察沙汰ということに、本腰を入れ始める始末だ」

「それで、どうしたの」

「――僕は繭子に、『謝りなよ』と言った」

純子は、息を詰めた。信じられないような言葉に、一瞬、耳を疑った。

そして、息が破裂するように、

「どうしてそんなことを!」

その時点でも尚、由利の声は、感情らしい響きもなく。

「僕は、繭子がそんなことをするわけがないと信じていたけれど、向こうも意地になっていて、

 もう、どうにもならないと思った。叔父夫婦も、根は単純な人達だし、いずれ晴れる疑いには

 違いないだろうけれど、繭子にしても、ずっと気丈には振る舞っていたが、これ以上

 周囲に責められるのを見るのは、僕自身、いたたまれなかった」

「だけど、そんなの本末転倒じゃない!」

「繭子は…」

きつくなった彼女の腕に、由利の言葉が一瞬途切れた。

「信じられない、というような眼を見開いた後に……穏やかな声で、『さようなら、あなた』

 と言って。そして二度と、僕の前に現れなかった」

その時も。……彼の声は、深く沈んだ穏やかさで。

「後で知ったよ。気丈にしていたと思っていた繭子が、内心どんな思いでいたのか。

 嫌がらせの電話だって、もしかしたら自分が本当にかけてしまったのかもしれない、

 自分は病気なのかもしれないと。お前がやったんだろうと、あれだけ責め立てられたら、

 そんな気の迷いが起こっても、無理は無かったんだろう。以前から叔父夫婦には色々と 

 言われていて、鬱屈していたものも相当に有ったはずだし。……でもその不安すら、

 僕には気付かれたくなくて。――僕の想像など及ばぬ程に、彼女は思い詰めてしまって

 いたんだ。そうとも知らず、僕はこの手で、彼女の最後の糸を、断ち切ってしまった。

 独りよがりの考えで。足りない言葉のままで」



張りつめて、張りつめて。

膨らみきったゴム風船のように、ほんの小さな針の穴が、瞬時にしてその存在を打ち崩した。

何の予感もない愚かさ。ただ、『無知』だけが問われる咎(とが)

本当に、知らなかったのか。針程の穴が、取り返しのつかない事態を引き起こしたということを。

自身に対してすら、その疑いはぬぐえない。

「則文が、そんな僕のことを責めたとしても、無理は無い。けれど彼は彼で、自分も繭子の

 潔白を信じながらも、表立っては庇いきれなかったことに負い目に感じて、けれどそれを

 僕にぶつけることもできずに、今も苦しんでいる。だけど、僕は……」

ぎゅっ……と、彼の首に回した腕が、きつくなった。

「すみ……こ……」

苦しさを分け合うように、彼女も息ができなかった。


「君が……今、抱いているのは――犯罪者だよ……」

裁かれぬ故に、償えぬ過去。

自分も、誰も、この罪を告発することはできない。

そして、悪夢よりも終わりを知らぬ苦悶は、静かに、穏やかに続く。

いつまでも。いつまでも時に埋もれぬままの喪失。癒えぬ哀惜。

「……僕は、人間らしい痛みにも……苦しみにも値しない」

何処まで沈んでゆけば……――区切りのない永遠の時の継続の中で、回り続ける日々。

始めることも、終わることすらもできないこの男は、何処までたどり着けば良いのか。

いつまで……独りで。



その夜、彼女は彼のベッドで寝かせてもらった。ただ、一緒に眠る為に。

カーテンを引いていない室内には、何かを押し流すように降る雨が、窓から映し出されて、

水底にいるような光景だった。

重苦しい、けれど透き通った、涼しい痛み。ゆらゆらと、漂いながら、音もなく、沈むように。

……ここが、彼の魂が眠り続ける場所。彼女は、初めてそこに行き着けたような気がした。

誰も居ない、二人だけの空間。流れ去ることのない、時のない部屋。

「由利……白い服、買ってくれる? 一緒に、行ってくれる?」

眠りにつく前に、彼女は呟いた。彼はもう、目を閉じていたが、「良いよ」と応えた。

彼女は、ようやく彼と共に居る方法が分かった。

……続けても終わるものなら、始めなければ良い。

ただ側に居るだけ。始まらない、けれど終わりもしないまま。ずっと、そうしていれば良いのだと。


――季節は、もう秋へと移り変わっていた。



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