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4−



* * * *


白い服は、もうずっと着たことがないような気がしていた。一度、由利の所で借用した以外は。

それまでは、彼に拾われた夜に着ていたような、色褪せた赤や、どぎつい柄物ばかり

着ていたので、白という色には、何も隠せず、裸で居るような気恥ずかしさがあった。

けれど今は、それを由利に見せたかった。

きっと彼は、「似合うよ」と言ってくれる。何の意味もない、あの優しい瞳で。

けれどもう彼女にとって、『意味』など、どうでも良い。

少なくとも、彼と同じ時間軸の上に在り続けようとするならば。

「有り難う、由利」

優雅なドレープが揺れる、柔らかなラインのドレスを買ってもらって、彼女は素直に

喜びを表した。

「似合う?」

「ああ。とても綺麗だよ」

きっと、誰にでも言ってくれる言葉。けれど、それだけで嬉しい。

こんなにも満たされて、何かを大切に思えることが、嬉しかった。

自己満足かもしれない。それでも良い。

彼に望まれなくても、彼女は彼と一緒に居ることができる。

彼はそれを許してくれる。こんなことが、あり得るなんて。信じられないような幸福だった。

こんなにも開放感に浸りながら、優しい孤独に身を委ねている。

決して自分を愛してはくれない男の隣で。

そして秋色の街を、恋人同士のように歩く。陽が暮れても、見失うことのない路。

何か言いたいような気もするが、この至福の無言を壊したくない。

何も欲してはくれない彼と、何をあげることもできない自分。

だから、何も求めない。時の狭間を頼りなく漂う船のようにやるせなく、いつ壊れるとも知れぬ、

けれど不安はない空疎さ。

いつまでも、いつまでも、記憶以前のまどろみに抱かれていたかった。




突然、背後からドンッと突き飛ばされ、純子は前に倒れた。

そして、振り向くと――

「由利!!」

声が出た時は、もう、男二人の体がぶつかり合っていた。

「死ねっ……地獄の底で、お前にふさわしい場所を探せ!」

二回、いや三回、ぶつかって、体は離れた。

「則文……!?」

周囲から悲鳴が上がる。血塗られた刃物は、彼の手の中では玩具のように小さく見えた。

全身を激しく震わせる男は、彼女を見ると、痙攣したようにナイフを取り落とした。

「由利……由利!」

腹部を数カ所刺されて倒れた彼に、這うように手を伸ばす。

則文には、彼女はもう見向きもしなかった。

救急車を呼べ、警察を呼べと、周りの喧噪が激しくなる。

けれど彼女には、もう何も聞こえなかった。

「由利、しっかりして由利!」

肩を抱いて、意識を確かめようと必死に呼びかける。

彼は初めて、その表情に感情らしい苦悶を浮かべ、微かに唇を動かした。

何を言おうとしているのか必死に読み取ろうとするが、分からない。

そして、彼が目を開けた。

自らの鮮血に染まった彼の手が、彼女にと伸びる。

彼女はその手を取って、自分の頬に当てた。

その生温さも、血糊の粘り気も、もう彼のものではない、『手』になりはじめていた。

「待っていて、すぐに病院に……」

言いかけて、途切れた。彼の瞳が、彼女を見つめ、そしてそれより遠くを見つめていた。

苦しげな……けれど、言い難い程の安らかさが、その中に映る。



「由利……?」

胸に、痺れるような痛みが、増殖する生物のように広がる。

頭が千切れそうに痛い。

まさか……これが?

何一つ、与えてあげられなかった、彼の望むもの。

始まらない、終わらないはずだった、光から閉ざされた

深海のような密室での時間。

望めるはずもなかった、その終わり。

そんなに……そんなに、そんなことを……どうして、そんなことしか――



唇が、動いた。だが彼女は、もう分かったような気がした。

聞きたくもない。

だから、ぎゅっと彼の体を抱いた。せめて、側に居るために。

一度として口付けることもなかった、この奇妙な恋人の最期を、誰よりも分かち合うため。


「ヘンタイ……っ」

行き場のない憤りが、もう意味を無くした愛しさに立ち尽くし、

途方に暮れた涙となって降りしきる。

……また、振り出しに戻ってしまった。

彼女の服も、あの夜の色に還っていく。

それでも、あの室内には二度と戻れない。



――至福の時は、終わってしまった。










*La Sainte Courtisane; or, The Woman Covered with Jewels. 
 『聖娼婦 または、宝石に覆われた女』
 オスカー・ワイルド全集2 西村考次訳(青土社)


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