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4−



施錠は、ハウスキーパー業者の仕業らしく、たまたま由利の帰りが遅く、

そのままになっていたというだけのことらしかった。


初めてここを訪れた夜と同じように、彼女はすべてを洗い清める沐浴のように、湯に浸かった。

思い出したように血が脈を打ち始めると、先刻までの痺れとは異なる、何かが弛緩してゆく

感覚が、指の先までしみ渡る。

風邪薬の代わりにと、彼はブランデー割の紅茶のカップを渡した。

着替えて、その上から毛布をかぶった彼女は、小さな雪だるまのように、床に座っていた。

そして由利は、じっと窓辺にたたずんでいた。だが彼は、決して外を見ない。いつもそうだった。

外を歩いている時も、きっと彼の心は、この室内を出ることは無いように思われた。

「由利……こっち来て。ここ……あたしの前に、座って」

彼女の言葉通り、由利がそうすると、彼女はカップを床に置き、そのまま毛布でくるむように、

彼の背を抱いた。その表情を見ることもできなくて、だから彼女は、彼の背中だけを見つめた。

「あたし、聞いてないよ。則文からは、あれから何も聞かなかった。『まゆちゃん』のこと――

 則文は、ずっと由利が嫌いだったんでしょ? 彼女のことは口実で、もっと前から、

 由利のことが……」

「繭子(まゆこ)のことは、誰から聞いても同じ話だよ」

……初め、彼は逃げているのかと思った。あまりにも重い、何かから。けれど、何か違う。

もっと冷たくて、厳しい静寂。

息をすることも罪深さであるかのように、密やかに暮らす彼の時間が、どれだけ続いてきたのか、

彼女は知らない。だが、あの無関心も無感動も皆、彼が自らに科したもののように思えて

ならなかった。人間らしい感情を一切許さない、そんな日々。



そして彼女は、自分では彼に欲しがらせることはできないことも、分かっていた。

生きようという欲望さえも、彼が望まない限り、どうやったって起こさせることは出来ないのだと。

けれど……生きたくもないくせに、死ぬことも許さず、無意味にただ存在し続ける。

そんな永遠の闇のように静かで穏やかな苦悶が、いつまで続くのだろう。

音の出ない鞭で、血を流しながら肌を裂く苦行のように。


「……繭子さんて、どんな人だったの」

何でも良いから、彼の感情が欲しくて、彼女は問うた。由利は、しばし沈黙していたが、

すっとテーブルの上に手を伸ばすと、読みかけのクロス張りの本を取り、開いた。

すると、栞のように挟まれた写真が、パラリと現れた。

「君にはどう見える」

彼が翳した写真を、手に取る。線の細い、けれどしなやかで気品のある、白い服の女性。

――それは、光の中に居るような姿だった。光の中で凍てついた影。

知らないはずなのに、気配だけは感じていた記憶と出逢った。純子は、そんな気がした。

感じていた。……自分には、触れられない場所。おそらくは、写真の中の女性が、

いつの日か微笑みかけた人物の意識が、静かに立ち尽くす場所。

「何でも思ったことは言うって感じ。可愛らしいけど、ハッキリした性格みたい」

「僕も、そうだと思っていた」

ふと裏を見ると、何か文字が書いてある。走り書きのような、青黒く沈んだ色のインク。

「何て書いてあるの、これ」

「in memorium (イン・メモリアム)

「どういう意味?」

「――『亡き人の形見に』」

則文は、由利が繭子を殺したようなものだと言っていた。そして由利もそれを分かっている、と。

由利は、何一つ言い訳めいたことは言わない。

そして則文も、由利を責めながらも、何故か直接それを由利本人にぶつけていない。

それが、繭子の『事件』の、それぞれにとっての重さ……?



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