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−4



一瞬にして、彼は別の男になったかのように、自分がすがっていた彼女を撲った。

反動で、彼女はソファーに身を伏せた。まともにぶつかれば、それは比べるまでもない程の

力の差がある。純子は頬を押さえると、肩で息をついている則文を睨んだ。

「……由利は、あたしの望むものは何でも与えてくれたわ」

「何が欲しい……? そんなもの、俺だって!」

「違うのよ……由利がくれたものなんて、結局、誰だってくれるようなものだもの。

 違うのは……由利はその代償に、何も欲しがらない」

「何が言いたいんだ!」

「由利があたしから欲しいものなんて、何一つ無いってことよ! あたしは、由利にあげられる

 ようなものは、何も持っていない、あたしは……由利にとっては、あたしは何の価値も

 持ってない女なの、あたしと由利が寝てないのは、それだけのことなんだって、分かった!?」

頬の痛みなのか、腹立ちなのか、熱いものが顔に昇ってきて、ほろっと涙がこぼれた。

それが嘲笑を含み、

「則文……あんたそんな女に、まんまと手玉に取られたのよ……? 由利に会った時、あたし

 言ったんだから。あの潔癖性の則文が、今じゃケダモノになって、あたしの言いなりだって。

 サイテーの人間に成り下がったのよ、どう!?…って。そしたら由利は……則文がどうだろうと、

 自分が最低の部類の人間であることには変わらない、だってさ。あはっ……きゃっ!」

彼女を言葉で黙らせることが出来ない則文が、更に打擲を加える。

由利を、それとも彼女を。どちらを憎んでいるのか分からぬ程の激しさで。

「あいつを……好きなんだな……?」

「……知らないわよ」

「あいつは決して君を愛さない、誰かを愛するなんてできない、人でなしだ!
 
 それを分かっていても……俺があいつに劣るって言うのか!」

「――もう沢山、ウンザリよ! 誰が由利の話を始めたと思ってるの!?  あんたじゃない!」

「ジュン、違うだろ? 何が欲しいんだ、健次郎のことなんか引き合いに出さなくたって、なぁ」

「やめてよ……!」

床に倒れた彼女を、力ずくでねじ伏せようとする則文に、純子は必死で抵抗する。

これまで彼が無理強いをするようなことは、決してなかった。

「離して……嫌だってば!」

思い切り蹴ると、丁度腹に入ったのか、彼が咳き込んだ隙に起きあがるが、すぐに腕を掴まれる。

「離して! あんた、おかしくなったんじゃないの!?」

尋常でない則文の追随に、彼女は恐怖を覚えた。部屋の中を、もつれ合うように

お互いを引きずり、何度も倒れそうになりながら、もみ合ってた。

本当に、殺されるかもしれない――

そんな思いが過ぎる程、則文の殺気が感じられ、純子は喉が干上がるような数分を過ごした。

けりがついたのは、倒れた拍子に則文がテーブルに頭をぶつけた時だった。

彼女は何を判断する迄もなく、起きあがった。

「待てっ……ジュン、行くな、行くな……!」

ぐっと足首を掴まれたのも振り切って、彼女は死に物狂いで外に飛び出した。




* * * *




結局、振り出しに戻ったように、夜は巡る。

外は雨。靴さえ履かずに飛び出してきたから、警官が通りかかれば、間違いなく挙動不審で

職務質問されただろう。顔も髪もグシャグシャで、けれどそんなことすら考えられずに、

彼女は泣き続け、そして歩き続けていた。何故なのか……これまで男には何度も酷い目に

遭わされてきたし、悔しかったり、腹が立ったり、惨めな思いをしたことは、幾度でも有った。

なのに今、こんなにも辛く、切なく、哀しい……こんな気持ちになることは無かった。

苦しくて、やり場が無くて、とにかく消えてしまいたいような、途方もない孤独。


足を引きずるようにして歩き続け、どれだけ経ったのかは分からない。けれど、彼女はやっと、

由利の住むマンションまで、たどり着いた。今の時間なら、まだ起きているはず。

そんな思いを胸に、由利の住む階まで上がっていった。

いつか見た夢が、胸に浮かぶ。扉を、開けてほしい。

今、この押し潰されそうな切なさから救ってくれるのは、ただそれだけ。



――だが、普段鍵を掛けていないはずの扉は、開かなかった。

それを悟った瞬間、彼女は絶望の淵に突き落とされたような思いだった。

それでもすぐに、本能的に扉を叩いていた。

「由利……開けて、開けて、由利!」

拳が砕けるような勢いで叩いた。血がしぼり取られるような思いで叫んだ。

ずる……っと、拳が滑る。応答は、無かった。

留守なのだろうかというようなことを思うよりも、ただ、「入れてもらえない」という、

罰されたような思いだけが、彼女を苛(さいな)んだ。

確かに、自分が扉を開けてもらえるような謂われもない。

何をしに来たのか、今更……何を期待して。けれど、もうそこから動けなかった。

これ以上無いという位の悲惨を味わう心境で、扉の前に座り込んだ。

鼓膜を打つのは、まるで遠くに聞こえる雨音。思考を狂わせるかのように、意識を奪っていく。

びしょぬれで歩き続けたこともあり、頭がズキズキしてきた。

彼女はそのまま、その場所でうずくまった。


それから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。カツ……という靴音に、半分意識が覚醒した。

目の前で止まって、ようやく現実だと分かる。彼女は視線を上げ、そして目を見開いた。

よろっと立ち上がって、けれど何を言ったら良いのか分からないことに気付き、

また泣きそうになる。何を言えば良いのか、謝るのか、思考までも水浸しになって、

喉ばかりが痛い。――そんな、気の遠くなるような数秒の後。



「……お帰り、純子」

溶けるような温もりに触れたのは、体と心……どちらが先だったのか。

そんなことはどうでも良い程に、感覚は融合されていた。



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