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3−



* * * * 


或る夜、彼女は街で由利を見かけた。ひと月ぶりにもなるだろうか。

道の向こう側で、女学生らしいのに腕を取られて、相変わらずの穏やかで優しげな表情。

女の方は、見るからに有頂天の様子だった。

それを鼻で笑いながらも、彼女は通り過ぎることはできなかった。



「――由利、健次郎様。お電話が入っております」

レストランのテーブルについて間もなく、給仕が彼の前に立って告げた。


「……純子」

『電話』の所で待っていたのは、彼女だった。

「久しぶりだね」

彼女は壁に寄りかかり、腕を組んだまま硬い表情を崩さなかった。

彼女が何故突然出て行ったのか、その後どうしていたのか。由利が、そういったことについて

問いただすことなどないということは、彼女は充分、分かっていた。だから、言いたければ、

自分で言うしかない。

「今、則文の所に居るの」

「そう。彼も元気かな」

「どうしてあたしが則文に近付くことを許したの?」

突き刺すように、彼女は言った。おかしな質問だということは分かっていた。

しかし、そうとしか訊きようがなかったし、訊かずにはいられなかった。

「許すも許さないも、僕にそんな権限はないよ」

「考えれば分かったはずだもの、あたしが則文にどんなことをするか、あの人のことを

 滅茶苦茶にするって、あたしがどんな女か、あんた知ってたでしょう……!?」

「――僕は君のことを、それほど知らない」

彼女は一瞬、口をつぐんだ。しかし次の瞬間、パッと壁から体を離すと、ぐいと由利の肩を

掴んで、今度は彼を壁に押しつけた。首筋に腕を回し、

「聞いてやって。則文はね、あれだけおカタい潔癖ヅラしてたのに、今じゃあたしの靴でも

 舐めるようなていたらくよ。あたしが『のりぴーv』とか猫撫で声出せば、もう骨抜きなんだから」

淫りがわしく脚を絡め、指先は襟足に伸びる。頬をくすぐるような囁きで、

「可笑しいでしょう? 見せてやりたいわよホント、大の男が。それでもまだきっと、

 自分はあんたよりはマシな人間だと思ってんのよ。それだけは捨てられないの」

「君は、可笑しいの?」

静かな言葉に、彼女は冷水で撲(ぶ)たれたような感覚を覚えた。

吐息がかかる程の接近にして、ここまでの冷たさを感じるなど、到底考えられないことだった。

「可笑しいわよ……。あんたは可笑しくないの? 則文は劣等感の塊よ。あんたが嫌いで、

 あんたにだけは負けたくなくって、そのくせあたしみたいな女にたらし込まれてケダモノに

 なって、サイテーな奴だと思わない? あんたを人でなしだって軽蔑してる男が、」

「則文がどうであろうと、僕が最低の部類の人間であることに変わりはないよ」



何の、感情の揺らぎも映さぬ言葉。

彼に、そんなものは無い。あらゆる存在の意味を無に還してしまう程の危険な無関心に

固められ、揺らぐものは何も無い。彼女の心に、苛立ちとも憤りとも異なるものがわき上がった。

「……あんたは確かに人間じゃない。生きようなんて意志を微塵も持っちゃいない。

 あんたはただ『存在』してるだけの、カラッポな、魂の抜けた体よ……!」

ふと、彼が微笑したので、彼女は眉をひそめた。

「何よ」

「君も、哲学的なことを言うようになったと思って」

「なっ……」

彼は、あの、形態的には『優しい』ような眼差しで、

「『酔生夢死』という言葉がある。――何も価値のあることをせず、ただ生きていたというだけの

 一生を終えること……無意味な人生。我ながら、自分のために造られたような言葉だと思う」

彼女は、もう言葉が出なかった。

喉が詰まって、けれど何も吐き出すことができず、ただ息苦しさが募るばかり。

……何をしていたのだろう。そして自分は、何をしているのだろう。

もう、分からなくなっていた。



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