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3−



長い長い階段の、ずっと高くまで昇った奥。窓の無い、行き止まりの部屋にたどり着いた。

重く、大きな扉がある。扉を叩いた。叫んだ。懇願した。

開けてほしいと、泣きそうになりながら頼んだ。

何処の扉なのか、誰に呼びかけているのかも分からない。

けれど切なくて、明けない夜に怯(おび)える子供のように、死に物狂いで扉を叩いた。



真夏の夜のような息苦しさに目覚めると、もう残暑も過ぎる頃合いだというのに、

彼女はうっすらと寝汗をかいていた。

そっと顔に触れてみると、汗なのか涙なのか分からないものが、ひたりと指を湿した。

由利の所に居た時は、汗一つかくことはなかった気がする。

ふと横を見ると、則文のごつごつした肩があった。

不意に、全身がベタッとした不快感に覆われているような感覚に襲われ、ベッドから降りた。

暑いわけではない。なのに何故か、胸苦しさがのしかかるように怠かった。

突き抜けるような焦燥と空疎さが、めまぐるしく交錯する。退屈な夜。明けない夜。

これからどれだけ重ねれば、最終頁にたどり着けるのか分からぬ、気の遠くなる倦怠の日々、

何物によっても満たし得ない空虚さ。……そして、彼女を夜ごと訪れる夢。

その中でも或る夢が、彼女を繰り返し苛(さいな)んでいた。


彼女は幾度も、由利と寝る夢を見た。

けれどそれは、何処か透き通った、肉の交わりなど感じられない、奇妙な恍惚。

ぼんやりと乳白色の霧のかかる、柔らかな静寂。

だけど切なくて、甘く魘(うな)され、目が覚める。

ズキン、と頭が痛くなり、横を見ると則文が居る。……そんな、繰り返し。

それが、何かをしていなければどうにもならない程に、彼女を駆り立てるようになった。

けれど則文は、昼間自分が仕事で留守をしている間はともかく、彼女が夜出かけることを

ひどく嫌がった。初めは、そんな独占欲も懐かしい程度に感じて、適当にあしらっていたが、

やはりそう長く続くものではない。言いくるめては夜遊びをするようになっていたが、

神経質な則文は、そんな気配を敏感に察知する。

彼女の方も、段々と素の自分に戻って、投げやりな態度が出やすくなっていた。

「あたしを一日中、家の中に閉じこめておこうっての?」

「そうじゃない、出かけるなら、一緒に出かけようと言ってるだけだ」

「んな、子供じゃあるまいし……お手々繋いでかよ」

ソファーで脚を組み、はぁーっ息をついた。処女の深情けというのは聞いたことがあるが、

ここまで女に慣れていなかったのかと、いささか辟易気味だった。

「カゴの鳥にする気? 息が詰まるよ……あたしを好きなら、もっと自由にしてよ」

「好きだから嫌なんだ、分かるだろう……?」

則文はひざまずくと、彼女の膝にすがった。

「君が俺を待っていてくれていると思わないと、生きている心地がしないんだ……」

「――苦しいのも、生きている証拠だと思うけどね」

一体この男は、自分のような女に、どんな夢を見ているのだろう。見させたのは自分。

けれど彼女の心はもう、自分自身の体からすら離れた、冷たい水底に眠ってしまったように

動かなかった。――そして、何かを踏みつけたいような衝動がわき起こる。


気まぐれのように、彼女は則文を蹴飛ばした。

勿論彼は、後ろ手をつきながら、驚愕に見開いた目を彼女に向けた。

「そこまで堕ちたなら、とことん行き着いちゃいなさいよ。そうでもしなきゃ、あたしは捕まえて

 おけないわよ。ほら……欲しいんでしょ?」

チラリ、と素足の爪先を、彼の鼻先に突き出す。

彼のぎこちない眼差しが、目前と彼女の顔とを交互に往復し、困惑とためらいと、

何らかの禁忌に対する畏怖が、色を映した。

「何してるの。誰も見ちゃいない。この部屋の中だけでケダモノになれば良い。

 昼になったら、素知らぬ顔で、聖人君子らしく振る舞っていれば良いんだから。

 あたしと……のりぴーだけの……ヒミツにして」

冒涜的な、背徳の快楽へと誘う魔性が吐き付ける言葉が、耳元をくすぐる。

決して男には、その支配を許さぬ気高い悪徳で、彼をかしずかせ。

「君は……俺を、どうしようっていうんだ……」

「――メチャメチャにしたいのよ」

その時既に、則文は彼女の足に口付けていた。畏れにすら、震えながら。

彼女は、するっ……と、脚を覆う布を、少しずつ上げてゆく。

「そして……あんたにもそうしてほしいの。何も壊さないような快楽なんて、あたしは欲しくない。

 何もかも奪い尽くして、血も涙も涸れるまで、もう、殺したいのかも分からないくらいに

 激しく感じたい……分かる? そうなっちゃったの……」

彼女は天を見上げるように、苛立ちにかすれた声を上げた。

生きていることの悦びと苦しみが、一つの出口を求めて藻掻き、罵り合う。

まるで、その激しさこそが生の証(あかし)であるかのように、尚も貪欲に求めながら。

「そう……素直なのが、あんたの良いところ……ふふっ……」

仕組んだ罠が、あまりにもたやすく獲物を捕らえた、空疎な達成感が満ちる。

何もかも失うことを、その覚悟については悟らせずに、ただ無謀に決心させることを叶えた。

彼女は則文の体をかき抱きながら笑った。笑い転げるように、全身を震わせて。

地獄で道化師に会ったなら、こんな風に笑うのだろうか。

堪えきれず、涙が出る程に。



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