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−3



「昨日は則文さんと一緒だったの」

昼近くに起きると、もう由利は出かけた後だったので、彼女は一日中、無為に時を過ごした。

何かを考えながら、頭の中で繰り返し、何かを呟きながら。

帰ってきた由利に開口一番に告げたその言葉も、そんな中の一つだった。

「彼、あたしのこと気に入ったみたい」

「それは良かった。彼は不器用で、折角女性に好意を持っても、巧く伝えられない

 様子だったから」

無視はしないが、特段興味も引かれない様子でそのまま書斎に向かう彼にも、

ずんずんついていく。

「――ちょっとだけ聞いちゃった。何で由利のことが嫌いなのかって」

その言葉にも、彼は何の反応も示さなかった。

「次に会ったら、全部聞いちゃうかもよ」

「聞いておくと、良いかもしれないね」

「……何の為に?」

「後学のために」

彼女は、振り向いた彼にぶつかる程顔を近づけて、

「あの人、半端じゃなくあんたを嫌ってる。憎んでるって言って良い位に」

「知っているよ」

「何とも思わないの?」

「僕にはそれだけの理由があるから、不思議はない」

「――あの人、あんたを『人殺し』って呼んだ」

「そう呼ばれても仕方のないことをしたと思ってる」

「ホントにそうなの? そう思ってるの?」

何を興奮しているのか、自分でもよく分からない。まして、彼に分かりっこない。

けれど彼女は、昂揚していた。緊迫した数秒間の無言(しじま)が流れる。

「……君も、分かるよ。則文に全部聞けば」

「自分で言い訳したらどうなの……!?」

「君に言い訳をしても、始まらないだろう」

もっともなことを言われてしまい、彼女も言葉が詰まった。

その場を区切りに、由利は彼女の横を抜けた。



どうしたら、あの男の顔色を変えさせることができるのだろう。

罵倒しても殴りかかっても、きっと動じない。

もし彼女が則文の所に行くと言ったところで、眉一つ動かすものではない。

口喧嘩にすらなりはしない。分かっていた。分かっている。

……彼は、誰も自分の内へは入れない。

来る者は拒まず。誰にも冷たい顔を見せることはない。

だが彼は決して、誰にも心の内は明かさない。触れされない。

これまで彼が、彼女に惜しみなく与えたものはすべて、彼にとっては何の意味もないもの。

分かっていた……彼女は、そんなことは知っていたはずだった。

彼は、彼女の望むものをすべて与えてくれる。たった一つのものを除いて。

だからこそ、これまで一緒にいられたものを。




* * * *




彼女は数日と日を置かず、則文と会うようになっていた。

だが、彼の口から由利の過去について聞き出そうという気は、二度と起こらなかった。

それに、初めて則文と言葉を交わしたあの日既に、もうあれ以上、彼からは何も聞けない、

そんな重い気配を感じていた。それでも則文と会っていたのは……



「あなたって、何だかいつも胸の中に言葉が詰まってそう。

 言いたいことは、全部言っちゃえば良いのに」

彼女の言葉に、則文はカウンターに肘をついて苦笑した。

「別に、何も無いよ」

「うそ。顔に書いてあるわよ。『君は気楽で良いね』って」

「良いねと思うのは本当だけれど、気楽だなんて思っちゃいないよ。

 君はハッキリしてるから、話していて気持ちが良い」

「そんなに気持ち悪い環境なの? 社長の息子なのに、居心地悪いの?」

「人徳の問題かもしれないな」

彼女に言われると、彼は少し卑屈な笑みを浮かべた。

「本来なら、俺は今の場所に居ない。……会社だって、健次郎のお下がりみたいなもんだ。

 俺も、親父も、みんな揃ってそうさ」

「お下がりなら……あいつより上等な着こなししてみせれば良いじゃないの」

突き放すように言った彼女に、則文は顔を上げた。

初めて会った瞬間から、彼の由利に対する反発には、劣等意識が絡んでいると感じられた。

それに加えて、由利の婚約者だったという、『まゆちゃん』の死へのこだわり。

激しく嫌悪しながらも、自らをその因縁から解き放てないジレンマを見抜いて尚、

彼女は言葉では突き放しても、何故か心では則文をシャット・アウトできなかった。

(しいた)げても、その後に同じ腕で抱き締めたいような、奇妙な欲望。残酷な慈愛。

「……そうだね」

彼が素直な溜息をつくと、彼女はチリンとグラスを重ねて、彼に笑いかける。

それに応えるように、彼も微笑した。

「君の魅力は、君の生き方なのかな」

言った後で自分の言葉に照れたのか、彼は少し、視線を逸らす。

随分とうち解けてきたものだと、実感できる瞬間だった。

だが純子は、自分ごときに心を許すようでは、彼はあまりに幼気(いたいけ)すぎる思った。

世間知らずで、ロマンチスト。幹は太くても、葉はオジギソウのように敏感な樹木の彼。

ぶっきらぼうで、時にはその素直さを逆手に取ってからかったりもするが、

何を考えているのか、思ったことはすべて読み取れる則文に、純子は安心感を覚えていた。

由利との不可解な関係とは対照的な、彼とのひとときに。




「……今日も、健次郎のところに帰るのか」

夜の街角で彼女を送り出す時、呟くように、則文が言った。

もう、夏の終わりの気配が、風に匂う。

「何が有れば、変わる?」

心もとない彼の問いに、彼女は振り返り、真っ直ぐに彼を見つめると、

胸の奥から吐き出すように、

「バカね……幾つ言葉を重ねたって、指一本動かす程にも世界を変えられないってことが、

 まだ分かんないの!? 欲しいんなら、その腕で抱きなさいよ!」

感情的な言葉とは裏腹に、彼女の胸中は、既に冷め始めていた。

触れてしまえば、その瞬間から、『何か』が止まってしまう。それを望んだのも真実。

けれど、これで『何か』が変わってしまった。

だが、その事実を自ら打ち消そうとするように、彼女は有りったけの力で、

則文に自分の存在をぶつけ、受け止めさせようとした。

彼にそれだけの度量があるかなど、考えることも拒む無謀な衝動だけで。



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