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「――首藤、則文さん」

広い背中が、思わぬ程にビクッとして振り返る。夕風もなま暖かい夜。

今降りてきた階段に、夜目に、すっと伸びた脚がまぶしいような、タイトミニの女性。

彼がおぼろげな記憶をたぐり寄せる間に、彼女はサッと階段を駆け下り、彼の腕を取った。

「夜遊びもせずに帰って、何するの? 大物になるなら、まずは夜の帝王!

 何処行こっか。あたし、ジュンよ。この間は、何も話せなかったでしょ?」

「話すって、君は健次郎の……」

彼女は、彼が乗り込もうとしたタクシーに、自分共々押し込んだ。

「おい、君は一体……!」

「運転手さん、紀尾井町までお願いね」

そして彼女は、則文の唇に指を当てると、

「何慌ててんよ、大の男が。あたしがあなたを食べちゃうとでも思ってるの?」

ふふっと笑うと、彼は魅入られたように固まった。

「良いんですか、お客さん」

「良いのよ、出して」

運転手の問いに、代わりに彼女が応えた。



だが、ホテルに着き、スカイラウンジのディナーテーブルが整っても、まだ則文は、

彼女の目を見ようともしなかった。純子はテーブルに片肘をつくと、ジト目で則文を見やり、

「ちょっと、いい加減にしたら? この期に及んで、あたしに恥かかせないでよ……

 金で買ったホストを引き回してるババァみたいじゃないの。嫌だったら、いつでも、

 今だって帰れるのに」

「君は……何をしたいんだ」

則文の重たく固い表情にも、彼女はしれっとして、

「あなたみたいな素敵な男性を放っておけない女なの」

「そんな……いい加減なこと」

吐き捨てるような、それでいて陰鬱な彼の言葉に、彼女は不快感を隠さなかった。

「話もしないで、どうして『いい加減』なんて言えるのよ。そっちこそ、いい加減に判断しないで」

「君は、健次郎の女なんだろう?」

――ピシャッと水をかけられて、彼は面食らった。彼女の手には、空になったグラス。

「……いつ、あたしがそんなこと言ったの」

じっと、見据える瞳。その強さに、彼は返す言葉もない。

「あたしは由利に囲われてるわけじゃないし、由利もあたしのことは何とも思っちゃいない。

 ……もう少し男らしい人だと期待してたのに、とんだ勘違いだったみたいね。さよなら」

そう言って彼女が席を立つと、彼も慌てて立ち上がった。

「待って! その……済まない、君を侮辱するつもりじゃなかった、俺は、その……」

もどかしさが先走って、言葉を阻害されている。それが感じられるが、彼女は黙っていた。

「女性に対して、あまり……慣れていなく……」

彼がハッと視線を上げると、純子がハンカチで、そっと彼の顔をぬぐった。

「御免なさい。あたしも、気が短くって」

にっこり彼女が笑うと、彼はまた、硬直してしまった。



「あなた、由利のことが嫌いなんでしょ。どうして?」

気を取り直して食事の後は、場所を変えて飲み始めた。

彼は、弱いというわけでもないようだが、普段あまり飲まないようだった。

表情も陰に消えがちなコーナーで、彼女が囁く。

彼は、幾分マシになったとはいえ、なかなか固さは抜けない。

年の割に女慣れしていないようなので、とにかく麻痺させるのが一番手っ取り早いから、

彼女は手慣れた距離にカラダをくっつけ、どんどん飲ませた。

「別に……」

「嘘。分かるわよ。気に食わないっていうより、毛嫌いしてるって感じがした」

「『毛嫌い』っていうのは、理由も無く嫌うことを言うんだ。……そんなんじゃない」

「あるんだ。――理由が」

ぐっと、傾きかけたグラスが止まる。

その表情を彼女がのぞき込むと、それを振り切るようにグラスをあおった。

「……あいつは、最低の部類の人間だ。人間と呼べる程の血も通っちゃいない」

「言わんとする意味は何となく分かるけど。由利って顔に似合わず、ちょー冷血だし。

 けど、何があってそうなったのか、イマイチ分からないのよね」

「あいつは……!」

思わず声が高ぶったところで彼女と目が合い、彼は口ごもった。

純子は、「何?」と、彼に顔を寄せる。

「……どうしたの。真面目で潔癖性のあなたが許せないような、どんなことをしたっていうの」

だが、彼は口を開かない。彼の肩に微かな震えを感じ、彼女は眉をひそめた。

そっと包むように腕を広げ、彼の広い背に手を当てる。へそを曲げた子供を、あやすように。

「……どうしたの?」

すると彼は、虚ろなグラスの中に、何かを見据えるような厳しさの瞳で。

「あいつは人殺しだ。それを自分で分かっていて、尚かつ生き続けていられるような、

 人でなしだ……!」

ぎゅっ……と、彼女の腕に力が入った。

「人殺し?」

比喩的に言ったには違いないと思いながらも、彼女はドキリとした。

「あいつの、あの生まれながらの優雅さの下の冷酷さに、どれだけの人間が傷つけられて

 きたか……。あいつは、誰のことも見ちゃいない。あの眼は人を惑わせる、すべてを暖かく

 見守るようでいて、何もかも通り過ぎているのに――彼女のことだって、健次郎がもう少し

 人間らしい感情を持っていたら、まゆちゃんが死ぬことはなかった……」

則文は、くっと息を詰め、ひととき目を閉じると、また静かに息を吸った。

だが、その眼に宿る鋭い何かは、カミソリを押し当てたような冷たさと、熱を持ったまま。

「……誰のこと? 死んだ……?」

「健次郎の、婚約者だった。透き通るような声の……気は強いけど、細やかな優しさを

 持っていた、それを……健次郎が殺したようなもんだよ、あいつもそれを分かってる! 

 分かってるんだ! なのにあいつは生きてる、相も変わらぬ上品さで悠然と澄まし返った

 まま……!  まゆちゃんがどんな思いで逝ったのか、俺ですら今も苦しいのに、

 何故あいつは平気でいられるんだ!」

ぐっと、グラスを握る手が、激しい感情に強ばる。

……何という、無防備なままに自分を隠せない男だろう。

ぶつけられずにいた思いがはじけ、体までバラバラにしてしまわないかと思われる程の高まり。

彼女は、忘れていた人間らしい弱さに、久々に巡り逢った気がした。

普段からの口下手さか、言葉の少なさからか、その重さは感じられても、過去に、

実際に何があったのかは掴みきれない。しかし彼女は、そっと則文の頬に口付けた。

慰めというよりは、自然な気持ちのまま。

「……優しいのね、あなた」

彼女の囁きに、彼はそっと面(おもて)を上げた。そして、突然自分の取り乱した言動を恥じ、

ふと我に返ったのか、またその顔を背けようとした……が、それを彼女の手が止めた。

戸惑う間もなく彼女の腕が回り、ぎこちない彼の動きも気にせずに、口付けた。





由利の所へ帰ると、彼はもう寝ていた。

最初にこの部屋に来た夜以来、ソファーで寝るのが習慣になっていたが、彼女は久しぶりに

寝室に足を踏み入れた。高層マンションということもあるが、由利がカーテンを引くところを

彼女は見ることがなかった。だから寝室の窓からも、常備灯のように夜景が見えた。

そして、暗く遠く広がる海。

枕元に歩み寄ると、窓に背を向けるようにして眠っている由利がいた。

少年の面影が消えない、罪を知らぬような、苦悶の影の似合わぬ寝顔。

思わず髪を撫ぜたくなるほどに、この、彼女より十は年上の男は、安らかな表情をしていた。

そして彼女は、実際にそうしていた。

「すみこ……?」

「御免なさい、起こすつもりじゃなかったの」

思いがけず眠りが浅かったらしい彼の目覚めに、彼女は我に返り、手を離した。

薄闇の中で、見つめ交わす視線。由利がそのままそっと目を閉じると、彼女は出て行った。


あの、則文の激しい感情に触れた後でも、やはり由利の印象は変わらずに、

穏やかなものだった。

激情に任せて吐きだしたような則文の罵りの言葉を、忘れたわけではない。

彼の言ったことが、由利に当てはまらないわけでもない。

則文が、おそらくは涙をこらえて吐露した心情の中に映る由利の姿は、

現在の由利健次郎そのままのものであって、少しも歪曲したところは無いのだろう。

あの、一見穏やかで優しげでいて、乾いた冷たさを秘めた表情。

その行動は淫蕩なようでいながら、常に何処か清らかで、優雅な品位を漂わせる。

無関心と、不可解な気まぐれ。全く正反対のような性質を、一身に併せ持つ彼。



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