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或る夜、彼女が夜遊びから帰ってくると、珍しくまだ由利が起きていた。

書斎からの灯りが漏れている。

「由利? まだ起きてたんだ。何やってんの」

ドアの隙間から彼女が顔をのぞかせると、彼は椅子にかけたまま、「お帰り」と振り返った。

「何読んでるの。げっ、ヤダ、横文字」

戯れにジャレついてのぞき込むと、英文の本を複写したもののようだった。

「これを大学で教えてるわけ?」

「これは違うよ。『サロメ』という小説は知っているかい」

「名前はナンか聞いたことあるけど……スジは知らない」

「神に仕える聖なる男に恋をした王女が、恋が叶わぬと知った時、男の首を切り落とさせ、

 その口に接吻をして想いを遂げるという物語だよ」

「ひぇー……凄まじい。それを読んでるの?」

「いいや。『サロメ』のように知られてはいないけれど、同じ作者の作品に、

 似た趣向の話があってね」

「どんな話なの? やっぱり首を切るんだ」

「いや。設定は似ていても、結末が決定的に異なっていて――『サロメ』の場合、

 聖者ヨカナーンは結局、サロメには振り向きもせず、その結果、彼女は狂乱した。

 この『聖娼婦』は、その逆なんだ」

「逆……? もうちょっと教えて。何だか面白そう」

彼女が言うと、由利は溜息をつき、机の横の本棚を指し、

「その、象牙色の、2巻目を取ってくれるかな」

彼女が本を取って渡すと、彼はパラパラとめくり、頁を開いた。題字に、『聖娼婦』とある。

純子はやっと漢字が分かったが、それにしても矛盾を感じさせる字面だった。

「ミルリーナという絶世の美女が、砂漠に現れる」

「何をしにきたの?」

「男に会いに来たんだ。若くて美しい隠者……砂漠の洞窟に住み、神に祈りを捧げる

 禁欲的な毎日を送る、そういう男が居ると聞いて。どんな男もひざまずかせ、その魅力の

 虜(とりこ)にしてきた彼女は、その男の目を、自分に向けさせようとやってきた」

「やるぅ……。で、その男はどうしたの?」

「ホノーリウスというその聖者は、身も心も汚れた彼女に、人間の卑しい肉体の愛ではない、

 神への愛を説き、改心させようとするんだが」

「で? どっちが勝ったの?」

「――どちらも負けたんだよ」

「……え?」

由利の言葉に納得が行かず、純子は聞き返した。彼は丁寧に、

「ホノーリウスはミルリーナの魅力に屈し、神を捨てた。けれどミルリーナもまた、

 己の罪深さを知り、神への愛に目覚める。……まるで運命の悪戯のようにね」

「ナンでそうなったわけ!? 途中、すっ飛ばしたでしょ」

「無いんだよ。『途中』が」

そう言うって由利は、本文を指さした。文節の間に、アスタリスクが三つ、打たれている。

「原文から、この部分が欠落しているんだ」

「そんな……肝心なところが無きゃ、どうやって男をたらし込んだのかも分からないじゃない」

「その通り。世界中の男達、皇帝もが進んで奴隷となり、みな命まで懸けて彼女の気を引こう

 とした。そんなミルリーナの誘惑に、聖者ホノーリウスが迷ったということは、そんなに難しい

 こととは思わないし、むしろリアルだ。……だが一体、何故ミルリーナが改心したのか」

じっと彼の手元を見つめる純子が、一文を声に出して読んだ。

「『――こんなことになってしまってあたしは自分の美しさが呪わしい、

 また、あなたに悪いことをしてしまったこの肉体のふしぎな魅力が呪わしい。』」

そして由利が、続く一文を読む。

「『子供みたいに、ミルリーナ、なにも知らずに話しているね。

 その手を放しておくれ。そんなに美しいのにどうしてこの谷間へ来たのだ?』」

由利の、穏やかで透き通った声が、純子の胸に、静かに問いかけるように響いた。

「……由利は、その女のことが知りたいの?」

「さぁ。ホノーリウスの豹変ぶりにも、興味はあるけれど。

 『ミルリーナ、私の目から鱗が落ちて以前見えなかったものが今ははっきりと見える。

  アレキサンドリアへ連れて行って七つの罪を味わわせてほしい。』

 ……ここまで極端に心境が変わるとは、肉体の魅力とは、そんなに凄いものなんだろうか」

「あんたはビョーキだから……。まぁ、たとえば別な女に向いてる目を自分に向けさせようっ

 てのだと、同じレベルで張り合わなきゃならないじゃない。でも、『神』とか言っちゃったら

 比べようないもん。いっくら心の中で思ってたって、直接カラダから来られたら、

 ひとたまりもないんじゃないの? カミサマは触ってくれないでしょ?」

「……なるほど。誘惑した者、それに屈した者。その双方が地獄の苦しみに落ちるというのは、

 考えてみれば当然なのかもしれないが、皮肉だね」

「あんたみたいに誘惑のし甲斐もない男は、つまんないけど。――おかげで二人とも、

 地獄に堕ちなくて済みそうね」

「さぁ……どうなんだろう」

その時の由利の呟きは、軽く笑った彼女の耳には、何ら重みを持たないものでしかなかった。



* * * *



「ねぇ、あたしのこと何て言ったの?」

「チャーミングなお嬢さんですねと評判ですよ」

「へぇー……外人ってカルいんだ。さっきの男なんて、あたしに色目使ったわよ」

「魅力的な女性に対する礼儀が行き届いているんだ」

普段、人付き合いというものの気配を全く感じさせない由利だったが、珍しく、知り合いの

外国人が主催するパーティーに顔を出さなければならない義理ができたらしく、

女性同伴ということで、純子もついてきた。

知人らしい人物に会えば、それなりに挨拶をしながら歩く由利。

こうしていると、彼も一見、何の社会性欠落も無い男のように思える。

しかし、上っ面の愛想だけは良い男だから、それで常識度を測るのも難しいことかもしれない。

そんな折り、ふと由利は誰かを見つけたのか、すっと歩き出した。

「――則文(のりふみ)、久しぶりだね」

由利が声をかけると、彼より大柄な、しかし同年代らしい男が振り返った。

体育会系の無骨さに、鋭さと共にナイーヴさを宿したような印象の青年だった。

彼はまず由利を見て、そしてすぐに隣の純子に目を留めた。

その視線のぶっきらぼうさに、彼女は一瞬びくっとしたが、すぐにニッコリと笑った。

すると彼は、ぎこちなく視線をそらした。

「元気そうだね」

「お陰様で」

全く会話を成立させようという意志が感じられず、社交辞令以外の何の言葉も交わされない。

「あれ、誰なの?」

由利はともかく、首藤(すどう)則文という先方の態度に引っかかるものを感じて、純子は聞いた。

「彼は、僕の従兄弟なんだ。二つ下の」

「イトコ……親戚? にしちゃ、随分と愛想の無い」

全然似ておらず、由利とは持つ雰囲気も全く違っていた。

「そうかな。……まぁ、彼は昔から、あまり僕のことが好きじゃないから」

「由利は、彼のこと嫌いじゃないの?」

「彼は僕なんかより、ずっと真面目な生き方をしているし、行く行くは会社の重役の器だよ」

「会社?」

「叔父がやっている会社」

彼は、それ以上のことは語らなかった。

そこに何かが隠されているというようなことは感じなかったが、由利の周囲に、

初めて『親戚』などという、血肉の通った話題が現れたことが、新鮮だった。

「ふーん……あたし結構好きだな、あーゆうマッチョな感じの男。
 
 ごっつい割に、優しかったりするの」

「優しいよ。多分、彼は。だけどかなりの堅物だから、最初はなかなか

 難しいと思うけれど」

「それ、あたしに言ってんの?」

「好きなタイプだそうだから」

「じゃ、参考にさせていただくわ。ついでに、もっと教えて」

ちょっとしゃくに障る顔をしても、気にもしない彼の横顔に、純子は拳を押し当てた。



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