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「――人でなし」

先客が泣きながら飛び出していった後に、彼女は呟いた。

由利は黙ったまま背を向け、何をするのかと思えばグラスを取りに行き、

ブランデーを注いで、彼女にも差し出した。そして、彼女の向かい側の独り掛けに座った。

「あんた、ちゃんと女抱けるんじゃないの」

自分のしたことは棚上げ方程式で、彼女はソファーに横たわり、彼の注いでくれた

グラスを取った。だが、彼はそんな彼女の所業について、何一つコメントしなかった。

寡黙だが、怒っているようには見えず、気まずい雰囲気も無い。

それだけでもおかしなものだった。

「『先生』っ……て、言ってたけど。あんた、大学の先生なんだ。ひぇー、おエラ方」

「ただの講師だよ」

講師も教授も、どのみち彼女には何の違いが有るかも分からない。

それよりも、以前より楽しめるネタを手にしたとでも言うように、彼女は、

「生徒に手ぇ出して、いっけないんだ! しかもヤリ得で、さっさと追い返しちゃってさ。

 おまけに『車呼ぼうか』、だなんて、冷たいったらありゃしない」

「彼女が帰りたい様子だったから言っただけだよ」

彼の言葉には、『言い訳』がましい色の、ひとかけらもなかった。彼女も、それを感じていた。

やましさも後悔も、何もない。ふしだらな部屋には、不思議と透明で涼やかな清潔感が漂う。

通常ならあり得ないと思われるような、穏やかな空間。

「おっじょーひんな顔して、大した淫蕩ムスコだこと。でも、気に入ったわ。

 ね、どうやって連れ込んだのよ、あのお嬢さん」

「彼女が押しかけてきた」

……なるほど、と納得。彼が居ながらにして醸し出す、物静かな知性と優雅な品位に

憧れを抱く女学生は、確かに幾らでも居そうだった。

「来る者拒まずってトコ?」

「『抱いてください』と言って、そうしてしまうと、今度は『愛してください』 と言う。

 前者は体の問題だから何とかなるが、後者は精神の問題だ。

 あぁ良いよ、というわけにもいかない」

「んなもん……寝言と思って、ただうなずいてりゃ良いじゃない」

彼女が鼻で笑うと、彼は特別改まったわけではなく、しかし率直な、彼自身の言葉で語った。

「僕は、面倒なことは苦手なんだよ。愛情を介しない行為も成立するということを

 理解できない、したくないのかは分からないが、僕を残酷だと非難し、大体それで

 終わってくれる。それが、一番簡単だ」

その言葉に、彼女は一瞬沈黙し、カタン、とグラスをテーブルの上に置いた。

「……あんたって、サイッテーの男」

一体、この一見穏やかで優しげな男の口の何処から、そんな冷酷な言葉が

造り出されてくるものなのか。既に当初の目的は忘れていたが、彼女はまだ、

驚きに飽きていなかった。彼は、尚も自然な率直さで、

「僕にあげられるモノなら、何でもあげるよ。 だが心のことは、僕自身にも

 どうしようもないことだから」

「あんたは、何も欲しくないの?」

……この、執着心の無さ。外見にそぐわぬ冷たさと、徹底した無関心。

他人に何と思われようと、全く気にしないのか。

彼女はもう、何に呆れて良いのかも分からぬ程、呆れきっていた。

まるで、子供と話しているような単純さ。それでいて、ちっとも理解できない不条理さ。

「……あんたってヘンだけど、もっと優しいかと思ってた」

「何も欲しがらない人間が、誰かに優しい気持ちを抱くなんてことは、

 まず考えられないと思わないかい」

「あ、理屈っぽい、センセー口調」

彼女はクッションに顔を伏せながらも、理路整然として、よく考えれば一貫している

彼の態度に、妙に納得させられていた。

「でもアッチにしてみれば、『センセーにあげたのに!』って思ってるよ? 

 ――あんたにしてみりゃ、メーワクな話か」

「別に迷惑ではないけれど、大体の間違いは、僕のことを思い違えていることに

 起因している」

「そりゃ、あたしだってあんた見りゃ、上品で優しげで、頭良さそうで……

 憧れるお嬢のキモチ分かるよ。夢みる女学生達のアイドルなんでしょ?」

「……見る目が無いのは、将来の不幸の要因になる」

「ホント。――でもあたしは、あんたに抱いてとも愛してとも言わない。けど、たかるのは

 構わないんでしょ? ……あんたのソコが、いまいち分かんないのよね」

彼女が首をひねると、不意に彼が言った。

「君の名前は、なんていうのかな」

その言葉に、彼女は唇をとがらせ、

「忘れたの? ジュンだって、言ったじゃない」

「そうじゃなくて。本当の名前」

グイとグラスをあおったところで、彼女は硬直した。

「ジュンも良い名前だけれど、何だか君には、もっと別な名前が有るような気がしてね。

 ……違うかな」

彼女はゆっくりグラスをテーブルに置くと、急に酔いが回ったような様子で、顔を伏せた。

何の意図も感じられない彼の、何気ない言葉。それが、思いがけない戸惑いと、

軽いめまいのような一瞬を導いた。

「……純子(すみこ)よ」

ぽそりと呟くと、彼は軽くうなずいた。

「君に、よく似合うよ」

何故か気恥ずかしさを感じて伏せていた顔を、ふと上げると、そこには彼の視線があった。

あの、思い出の写真を見つめる、遠い眼。優しい、けれどもうそこには無いもののような。

今でも、未来でもない。今と、過去――その狭間に漂っているような。

今まで知った、どんな言葉をもってしても言い表しきれない、とらえがたい未知の感覚、

感情に、歯がゆさが喚起される。



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