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1−



彼女が目を覚ますと、もう朝になっていた。

ソファーで寝具にくるまっていた彼女は、一体、昨夜何があったのか記憶が混乱し、

しばし、ぼやーっとした頭のままだった。

「……おはよう。何か、朝食にいるかな」

ふいっと視線を走らせると、あの男がダイニングテーブルに、食器を並べていた。

柔らかな白さのシャツの眩しさ、そして眼鏡の奥の、穏やかにして悠然とした気品を醸し出す

瞳が向けられると、彼女はその優雅な光景にしばし言葉を持たず、ゆっくり起きあがると、

バスローヴの胸元を合わせた。

「着替えが要るか。取りあえず確か……有ったな」

彼女の仕草を見てか、彼は皿を置く手を休め、「君が着られるようなものが有ると思うから」と、

彼女を衣装ダンスのある部屋に連れて行くと、自分はまた、朝食の支度に戻っていった。

「何なんだよあの男は、ホントに……ワケ分からん」

と言いつつも、いつまでもバスローヴのままでは居られない。

――しかし。

「有るには有ったけどさあ。あたしにゼン…ッゼン、 似合わないよ、コレ」

彼女は、何で有ったか知らないが有った白いワンピースのスカートの裾をつまんだ。

ダイニングキッチンには、珈琲の薫りが、柔らかに広がっていた。

彼女を見やった彼は、フィルターに湯を注ぐ手は止めずに、

「そうか……君のものじゃないからね。もし良かったら、君に合うものを買ってあげるよ」

「……まじ?」

席に着いたばかりの彼女の方が、静止する。ごく自然にこぼれ出た、男の言葉に。

「他にも必要なものがあれば、ついでに揃えると良い。後でカードを渡すから」

「ホンキで言ってんの?」

珈琲がフィルターの上でふっくらと膨らむと、彼はその場を外し、すぐに戻ると、

彼女の目の前にカードを置いた。彼女は不信感あらわな視線で彼を見上げると、

それでも一応、カードの真偽を確かめる。

「あたしみたいな行きずりに、こんなもん渡しちゃって良いの? 

 しらないよ、とんでもないことになっても」

「……ならないよ」

彼は、ふっと笑うと、彼女のカップに珈琲を注いだ。


どうも、調子の狂う男だった。気前の良い、絶好のカモかもしれない。

或いは、突然とんでもなく豹変するヘンタイのクチかもしれない。

しかし取りあえず、たかれるだけたかっておくに越したことはないから、様子を見ることにする。

その点に置いては、まんざら外したわけでもなかったらしい。

ふーん、とそのカードと男の静かな表情を見比べると、彼女は食卓の上に両肘をついて

身を乗り出し、別の話題をふった。

「今日は、仕事無いの?」

「無いよ」

あえてズバズバ訊くことはせずに、思わせぶりに微笑する。

男からも微笑は返るが、それは何かを誤魔化す類のものでもなかった。

「そういや、あんた何て言うの? まだ訊いてなかった」

昨夜から礼らしい言葉一つ述べてもいないが、そんな彼女の様子にも、

男は一向に反応らしいものは見せない。

「由利」

ふと呟かれた名に、彼女は、

「ゆり? 何よそれ。女みたいな名前じゃない」

「苗字だよ」

「あ……そう。じゃ、下のナマエは?」

「健次郎」

「……ナンっか、似合わないわね。カタくって」

「そうかな」

彼は、手に持ったカップに視線を落としながら、微かに笑うような表情のまま応えた。

よく喋る彼女にも、最小限の受け答えしかせず、しかも彼女には決して何も訊かない彼に、

彼女は口をとがらせて、

「あたしはジュン。よろしくね、由利」

「よろしく」

何だか、ままごとのようだった。だが、あっちは別に気に留めていないようなので、

彼女も気にしないことにした。そしてまた、気を取り直すように、

「ね、ホントに何でも買って良いの?」

「良いよ」

「でもあたし、ホントに何も持ってないよ。昨日、もうボロ雑巾みたいにされて追ん出されたの。

 分かってるでしょ?」

「――君は綺麗だね。昨日の夜よりも、今朝の方が」

突然、何の脈絡もなくこぼれ出た思わぬ言葉に、面食らう。

そんな時、彼は、形状描写的には『優しい』ように見える穏やかな笑みを、微かに浮かべて。

その不可解さに、彼女は半ば呆れた口調で、

「昨日と比べられたら…あんた、あのスンゴい状態と比べる〜?  

 そりゃ、すっぴんでも、まだマシでしょうよ」

打算や目論見といった作為は、一切感じられなかった。

頭のネジが、一本飛んでるのかもしれない。そんな、奇妙な穏やかさに包まれた男だった。

そういえば、彼の周りには、時計であるとか、暦、新聞など、時間を感じさせるような事物が

何も見当たらなかった。流石に電話は置いてあったが、それは鳴ることもなく、

ひっそりと隅に身を潜めている。

冷たいけれど寒くはない、けれど暖かくもない…そんな空気。

辺りを見回して、再び視線を戻せば、丁度、彼と目が合った。

彼は、近くに居る彼女のことも、遠い記憶の形見のように、静観している。

彼女は、彼に見つめられると、自分がセピア色の写真の中に居るような気持ちになった。

そして、自分ではない、白い服を着た別の女性が、その場所に居るような。

遠くに居るのは、自分なのか、それとも彼なのだろうか。



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