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1−



水たまりに映る街の灯が、まるで水面に浮かんだ油の色のように凄む、

威圧的な夏の宵だった。

そんな気配に逆らうように、よろけながらアスファルトを踏みしめて歩く、若い女がいた。

色褪せ、薄汚れた赤い衣服に、ほつれた髪。

罵詈雑言を吐き散らしながら、行く当てもない様子で歩いていた彼女は、

ポッカリと空いたような車道に出くわすと、突如、道端に座り込んだ。



それから、どれだけの時間が経ったのかは、分からない。

ふと彼女が人の気配に気付いて目を上げると、雨上がりの清浄な空気に溶けるように、

透き通った印象の人影が立っていた。――何を考えることすら忘れる、不思議な光景。

そこに、そう定められていた運命であるかのように、手が差し伸べられた。




* * * *




体を沈めていた浴槽から、すっと脚を伸ばし、湯から上がると、彼女はバスローヴに腕を通し、

くるっと紐を結び、腰をかがめて水栓のコックを下ろす。

そして静かに流れ落ちる水音を背景に残し、リヴィングへと向かった。



大きく広い窓からは、相変わらず彩りまばゆい街の灯と、遠く暗い、夜の海の眺め。

1時間程前、初めてこのマンションの一室に足を踏み入れた時、彼女はまるで、

自分がこの夜景の支配者にでもなったかのように歓喜した。

だが、彼女をここに導き入れた男は、そこには居なかった。

ソファーには寝具が揃えられており、「ここで寝ろ」ということらしい。

彼女はテーブルの上のメモをつまみ上げた。

薄明かりの中で目を細める。――“先に休みます”……と、一言。

彼女の前髪からこぼれ落ちた水滴が、インクの青い文字を滲ませた。



彼は一見して育ちの良さそうな、お坊ちゃんの面影残る顔立ちで、童顔らしいが

一応三十は越していると思われた。

会社員というよりは学者のような、俗世離れした穏やかな空気をまとっており、

住まいから見ても、生活に『苦労』という言葉は、思い浮かべたこともあるまい。

そして、その態度は無機的でいて、不思議と冷たさは感じないものの、

妙に素っ気ないところがあった。



「あのさ、こっちに寝ても良い?」

もう寝室の灯りは消されていたが、カーテンを閉めていないので、真っ暗闇ではない。

ここの窓からも、夜景が見える。

彼女がそろりとベッドに近づくと、彼は目も開けずに、半分寝入った声で、

「……どうぞ」と呟いた。

その応えに微笑すると、彼女はぐるりと回り込み、ベッドに潜った。

――それから、一分後。


カチッとサイドランプが点いた。

男が、眼鏡を外した眠そうな目を細めて、

「君、何かを抱いていないと眠れない習慣なのかな」

「あんた、もしかしてゲイ?」

彼の寝首でもかくような体勢のまま、彼女は眉をひそめた。

男が数秒黙っていたのは、その問いの趣旨を考えていたからかもしれなかった。

「……多分、君程の男性経験は、皆無だよ」

「やりたかったから、あたし拾ったんじゃないの?」

「いや……別に。着替えた方が、気持ち良さそうだなと思ったから」

「――ふざけてんの?」

「話が有るなら、明日の朝聞くよ。僕は、あまり夜更かしはできないんだ」

えっ、という間もなく、絡めていた腕も脚も外され、灯りも消され、彼女は男に

背を向けられてしまった。

「ちょっ……何よあんた! 何が夜更かしできない……って……」

もう、からむにも手がかりがない程あっけなく、男は寝入ってしまった。



何だか予想と全く異なる展開になり、彼女はベッドの上に起きあがった。

男はそのまま寝ている。……どうも、妙なのに拾われてしまったらしかった。

彼女は、まだ納得がいかないながらもブツブツ言いながらベッドを降りると、

あの、夜景がそのままタペストリーのようなリヴィングに戻り、ソファーに、ドスンと座った。

このままここに居るのも馬鹿馬鹿しいけれど、今はバスローヴ姿。

着ていた服は、今更袖を通す気にはなれないので、このままでは外に出ることもできない。

そのことにもイラついて、何かないかとキッチン辺りを物色。

「ビールも無いのかよ……ったく」

結局、キャビネットからブランデーを引っ張り出し、グラスを探してきて注いだ。

高そうなのを、他人のものだと思って何の躊躇もなく飲み干し、また注ぐ。

すると一気に体がほてり始め、目頭にも熱が感じられてくる。



振り返れば、彼女が先刻まで居た、手垢に汚れた万華鏡の様に雑多な色彩にまみれ、

いかがわしいネオンや、その色にまぎれる迷彩服のように派手な衣装の女達があふれ返る

その場所さえも、同じ『人間』が住むとも思えぬ程に美しい、夜景の一部。

それが、ぼんやりとしては冴え、霞んでは鮮やかになり、遠く近く、ひらめくように映える。

「きれい……」と、そんな素朴な言葉が、溜息と共にこぼれた。

もう、何を考えることもない。ただ、瞬く灯に目を細め、意識から遠い場所へと近付いてゆく。

思考をわずらわすものは皆、夜景に溶け込んでいった。



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